1月に米コダックが破産法を申請したというニュースに驚いた。
なんといってもあのコダックである。銀塩カメラ時代の世界では、写真フィルムといえばアメリカのコダック、日本の富士フィルムとコニカ、そしてドイツのアグファ、この4社の寡占状態。ぼろ儲けだったのだ。その中でもコダックのフィルムは値段はやや高かったが、世界中どんな小さな町でも手に入った。
カメラ好きのオトンの影響もあり、幼い頃から35ミリフィルムにはいろいろ思い入れがある。オトンは撮った写真をぼくに見せながら「フィルムにはそれぞれ特徴があってな。コダックはややブルーがかり、アグファは茶系、フジはクセがないんじゃ」なんて話していたのを思い出す。小学生のぼくに、そんな違いなどわかるはずもなかったけれど。
デジカメが普通のいまでは、フィルムメーカーが滅ぶのは栄枯盛衰の世界では当然だという考え方もある。いっぽうで、じゃあ富士やアグファ、コニカ(のちミノルタと合併)はなぜ生き残っているのか?という見方もできる。ぼくが今回注目したのは、この4社のありようが、まさに米国人、日本人、ドイツ人の考える会社の企業観を象徴しているように思えたからだ。
▲ こんなふうにフィルムメーカー4社はきちんと色分けされていました。パッと見てどのメーカーの商品かすぐわかるというのは利用者にとってもありがたいですよね
よく「会社は誰のものか」と言われる。
株主のもの、社員のもの、お客様のもの、地域のもの・・・。いろんな考え方があるし、それぞれ間違っていない。たぶん良し悪しでもないのだ。ぼくはドイツ、英国、香港(米国株式上場企業)、日本、それぞれで働いた経験を持つが、日本とドイツの考え方は似ていて、他は違う感想を持つ。前者は「企業は共同体であり、存続させるための箱」であり、アメリカなどでは「企業は投資家が利益を得るための箱」と考えられているふしがある。つまり企業存続を目的とするか、手段とするかの違いだ。
日本人やドイツ人は従業員やお客のためにも会社を潰してはならないと考え、アメリカ人などは用のなくなった企業はさっさと潰してしまえと考える。どちらも「それが世の中のためだ」というわけだ。ぼく個人はやや前者寄りだけど、後者の考え方もアリだと思う。要はそれぞれの企業観の違いだけのはなしだ。話は飛ぶが、ホリエモンや村上ファンドの村上氏は米国株式市場なら、まず逮捕されることはなかったと思う。
存続が目的だから、企業は世の中に合わせて変わり続ける。これが富士フィルムであり、アグファであり、コニカであった。方法は多角化であり、内部留保した資金を応用分野に再投資しながら徐々にシフトしていく方法をとった。アメリカは余剰なキャッシュなど持たず、さっさと投資家に還元しろという考えだ。だからこそ投資家は「別のもっといい会社」に再投資できるのだと。適者生存の考え方である。
例えばイギリス。
戦前は紡績産業で世界を席巻していた。そこへ日本などの新興国が市場を次々に奪っていくものだからイギリスの紡績企業は業績が悪化、株主たちはそんな会社を切り捨て、金融産業へとシフトしていった。やがて紡績産業そのものが廃れていった。70年代にはいるとこんどはエレクトロニクスの時代だ。するとなればなったで、かつての覇者アメリカ企業に挑戦者日本が立ち向かい、この市場を奪っていった。おかげで70年代から90年代初頭において、アメリカの企業はずいぶん倒産した。いっぽうドイツ企業も奮戦していたから「どっちが第二次大戦に勝ったのかわかったもんじゃない」と英米ソ連人は嘆いたものだ。ちょうどぼくが日本とドイツを行ったり来たりしていたころで、「やっぱイタリア抜きだと勝てるじゃないか」などと笑っていた。
戦前にイギリスから市場を奪った日本の企業は今もあるし、戦後アメリカから市場を奪った日本の企業も健在だ。商品を変え、事業モデルを変えながら、日本企業は動乱期を生き延びていった。今はむしろ追われる立場だ。攻撃には強い日本企業も守りに入ると弱いといわれる。だが、守る必要はない。攻撃し続けられない企業は、どちらにせよ消える運命だからだ。
会社はいったいだれのものか?
株主?社員?お客様?地域?社会?はたまた社長?
答えによって、あなたの就業観がわかるかもしれない。
コダックの破産法申請のニュースで、つい
そんなことを考えてしまいました。
あいかわらず飛躍しすぎだけど。
最近のコメント