ことのほか謝ることに抵抗のない日本人からすれば、外国人の謝らなさには、カルチャーショックすら覚えるものだ。
80年代なかば、海外生活を始め最初に買ったのはラジオカセットレコーダー。だのに、いきなりこれが壊れている。電源が入れても音がならない。プレイボタンを押しているのにテープが回っていないのだ。
さっそくその日に買ったお店でクレームすると、ぼくが自分で壊したのではないかと疑われる始末。故障の原因がわからないので返金に応じられませんと言われ、在庫がないからと取り替えてもくれなかった。「預かってもいいけど、修理には時間がかかる」とだけ告げられた。ひどい。買ったばかりなのに。
何よりショックだったのは、店員がひとことも謝らなかったことである。それどころか「私が悪いわけじゃないのにそう責められても困る」といった感じであった。たまたま入った店がまずかったのだと信じようとしたが、やがてこういったケースは特異でないことを知るにつけ、悲しくなった。そのうち慣れてしまったのだけど。まあ、そのようにしてあきらめるのもりっぱな処世術である。
いちど「謝られない」ことに慣れてしまうと、こんどは謝られるとひどく恐縮してしまうようになる。一時帰国中、日本で買い物をしたり、お店で何かを食べたりするたびに、びっくりするほど「すみません」と謝られ、「ありがとうございます」と感謝される。キオスクでたった100円のガムをひとつ買っただけなのに「すみません」と「ありがとうございます」を2回ずつ、言われたりもした。原価割れしちゃうだろうに、と心配になるほどだ。
なぜ日本人はすぐに謝るのか?ということを、真剣に議論したことがある。
ひとつの結論としては「そのほうがあとで面倒なことにならないから」というものであった。日本では「まずは非を認めて謝れ。その上で言いたいことがあれば言えばいい」と教えられる。まわりも謝った相手に、非を責めつづけるのも大人げないと、子どもですら考えたりする。行った罪そのものより、謝らなかったこと自体が悪いような見解が、日本ではみられるのだ。
あらためて思えば、日本人が謝りやすいのは「安心して謝れる環境」があるからだ。なんらかの迷惑をかけられても相手から謝れれば「いえいえ、いいんですよ」とつい、口に出るものだ。もちろん程度にもよるけど。日本人は互いの気持ちを察しあうやりとりが得意である。コンテクスト文化といわれる所以である。外国人からすれば、なかなか決められない優柔不断な民族とみなされることもあるが、これも相手を気遣う気持ちがあるからこそである。
自分同様、周囲も「まずは謝る」人達であると知っているからこそ、安心して謝れるのだろう。逆に言えば、滅多に謝らない人達に囲まれて生活をしていれば、やがて自分も謝らなくなるかもしれない。先に非を認めて、不利な立場になった経験を持つ人ならなおのことだろう。「謝れば損をする」という意識が高まれば、自己保存の本能が強くなり、謝れない体質になってしまうのかもしれない。前述の店員のように。
でもまあ振り返ってみれば、長くそんな環境にあってもぼくは「まず謝る」クセはついに抜け切れなかったように思う。相手を察して行動するという日本人のDNAは、簡単には壊れないのである。
ただの性格なのかもしれないですけど。
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