ドイツで働いていたとき、同じ職場のフランス人(女性)と大激論を交わしたことがある。きっかけは原爆記念日。「投下以来、日本では原爆が落とされた同日同時刻に一分間の黙祷をしている」という話をしたことだった。
彼女曰く「犠牲者はコリアンもいるのになぜ隠すの?」
はじめ、なんのこっちゃ?と思った。
誰の入れ知恵か知らないが、強制的に連れてこられた朝鮮人も亡くなったにもかかわらず、日本人はそれを隠しているという認識でいるのだ。たちが悪いのは、それを根拠に「本当の犠牲者はコリアンの方でしょう?」と結ぶ。戦争を起こしたのは日本人なのに、犠牲者ヅラをするなということらしい。巻き添いを食らったコリアンこそいい迷惑だと。
「隠してなんかない」とぼくは反論する。
原爆資料館でも在日朝鮮人をはじめ、外国人被爆者が少なからず存在し、このうち数千人の死亡者がいることは小学生の課外授業で習った。
「たった数千人!?」と彼女はわざとらしく驚いてみせる。「コリアンだけでも3〜5万人も亡くなっているのに?」と。
ばかな!と思う。
当時広島市の人口は35万人。このうち原爆で亡くなられたのは1945年時で14万人。このうち5万人も韓国・北朝鮮人が亡くなっていたとするならば、もともと広島の人口の3分の1が韓国・北朝鮮人で占められていたということになる。そんなの、まずありえない。
「日本政府は都合の悪いことは隠すし、教えない」と彼女は言う。ちなみに彼女は南京大虐殺についても詳しかった。ただし、Newsweek誌など左派メディアの受け売りが多かったのだが。
宮崎駿監督映画『火垂るの墓』を韓国や中国で上映しようというとき、「日本人を戦争の被害者にみたてていいのか」という議論があったという。あの戦争の加害者は日本人で、被害者は巻き込まれたアジア人。議論にはそんなすり込みが背景にある。
無辜の市民の上に核爆弾を落とし、大虐殺を行いながらなお「正当性」を主張し続ける米国と、利害を共有する韓国と中国。あげく、フランスの普通のお姉ちゃんにまで「日本人は加害者であるべき」と言われる始末。それが悔しく、大激論となったのだ。かつては植民地を保有し、いまは核兵器を保有するフランスが、人のこと言えた義理か、と思う。そもそも初戦からドイツに負けたくせに、終わってみればいつのまにやら戦勝国、というのもおかしいではないか。
原爆ドームのある平和記念公園内に設置してある「原爆死没者慰霊碑」には 『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』と刻まれている。異論反論を退け、いまだにそれはある。「広島市民は世界市民の一員として・・」などとよくわからない理屈がこねられる。原爆を落とされ、多大な一般市民が虐殺されてもなお、加害者でありつづけなくてはならない宿命。
▲ 原爆死没者慰霊碑の石室にある石碑
これではたして「安らかに眠れるのか」と、当時子供ながらに思ったものだ。そして、いまでも8月6日が来るたびにそう思う。
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