はじめて台湾に行ったのは1988年、出張だった。
ぼくはまだ20代なかばのかけ出して、世の中のことも自分のしている仕事のことも、まだよくわかっていなかった。だのに出張中、取引先の台湾人から熱烈歓迎の接待を受け、ありがたいやら、迷惑やら、でもやっぱりありがたい思いをした。
いわゆる台北の高級バー。
ベルベットのソファに大理石のテーブル。板張りのフロアの上ではクリスタルボールがまわり、チャイナドレスを着た女の子たちが大挙して席へやってくる。大変ゴージャスなお店なのだ。だが、そんな場所になれないぼくは身を固くし、小さくソファに収まっていた。「どうかしましたか?」と取引会社の許(スー)さん。「いや、別に」と答えると、隣りに座った女の子が気に入らなかったのだと思ったのか、スーさんは突然女の子をチェンジした。
「はじめまして」と日本語。
替わって隣りに座ったのは綺麗な日本語をしゃべる女の子だった。とても可愛かったかもしれないし、そうでもなかったかもしれない。あまり覚えていない。名前も忘れた。だけど彼女からはジャスミンのいい香りがしたのを、なんとなく覚えている。
彼女とは翌日会うことになった。
午前中がオフだったので、どこかへ市内観光でもしたいとリクエスト。彼女は快諾してくれ、朝早くぼくの泊まっている兄弟飯店まで迎えに来てくれた。どこへいくのかと思いきや、意外にも「実はきょうは踊りの稽古があるの」と彼女はいう。場所はすぐ近く。鉄格子のはまった古く大きなビルの一室である。たくさんの女性が民族衣装のようなものを着て盛んに出入りしていたので、面白そうなので稽古場をのぞかせてもらった。
5人くらいが2列縦隊になり、ベトナム帽子のような赤い傘をかぶり、音楽に合わせて舞っている。その中に彼女も混じっていた。まるで大きな人形劇を見ているようだ。不思議な気持ちだ。仕事で台湾に来て、道具部屋のカーテンの隙間から女の子の踊りを眺めている。練習は1時間ほど続いた。
「踊り、よかったよ」とぼくは言った。
「ありがとう」と彼女はいい、微笑んだ。それから「ボウリングする?」と聞いてきた。あれこれ断る理由を考えていると、彼女はぼくの手を引き、同じビルのボウリング場へどんどん入っていった。台北観光はどうなるのだろう?
「ところでどうしてあなたはそんなに日本語がうまいの?」と聞いてみた。彼女は靴の紐を結びながら、祖父や祖母が日本人だったからよ。といった。じゃあ、日本人なんじゃ・・と言いかけ、「おじいちゃんたちは、今の若い日本人よりよっぽど日本人だって言ってるわ」という彼女の言葉に遮られる。意味がよくわからなかった。
アジアでひどいことばかりした日本人。
夏休みの宿題に朝日新聞の『天声人語』を毎日ノートに書き写させられながら育ったぼくのような普通の日本人にとって、戦前のある時期から日本人は突然狂ったように残虐になり、横暴で戦地でもレイプばかりしていたと学ばされた。だから、かつての日本人が尊敬され、いまも植民地時代を懐かしむ台湾人がいることにいささか戸惑ってしまう。
ボウリングをしながら彼女とはいろんなことを話した。大半は忘れたが、「私に会うために、もうあんな高いお店に行っちゃダメよ」と言い、「会いたいんならこうやって会えばいいんだから」などと言う彼女に、ある種の異郷を感じた。なかなか非凡な女の子。ヒボンヌさんだ。
ボウリング場をあとにし、手を振ってぼくらは別れた。
帰りの空港で、もらった番号を試しにかけてみた。
電話に出たのは若い男の中国語。台湾語だったかもしれないが、彼女を呼び出してもらう言葉がどうしても伝わらず、電話は切れた。
月日が経ち、もらった番号をなくしてしまえば
彼女とはあれきり。連絡をとりあう手段もない。
ケータイもネットもなかった時代だったのだ。
そんな時代もよかったと、今もときどき思う。
昔の台湾人も、そうやって日本を懐かしむのか?
悪ノリしてロックンロールを踊っていました。
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