友達が少ないと生きづらい時代である。
また、友達が少ないことで「人間的に欠陥がある」かのように思われやすい。そうならないよう誰かとくっつくことで安心し、こんどはつきあいの悪い人間を排除しようとする。いつの時代にも、避けがたいムラ社会がある。
多くの人が友達を作り知り合いを増やし、つきあいに励む。メールの交換をおこない、名刺交換をする。その前にすることがあるだろうと思う。「お見知り置きを・・」渡した名刺を使われ、さっそく営業をされるのは、いくつになっても慣れるものではない。ぼく自身これまで世界各地でさまざまな出会いがあった。けれども名刺に始まるそれに限っては、いまも続いている例がない。
1年前にぼくはサラリーマンを辞めた。
理由はいくつかあるが、ひとつに「人間関係に過剰に時間を奪われること」を嫌ったせいもある。人はどんな生き方をしてもいいけれど、決まった時間でしか生きられない。歳をとるにつれ、ますます希少になるこの時間こそが大切だと気づくとき、他人の会社で時間をくっている場合でないと痛感する。たとえ経済的や社会的に不利になることはあっても、一時的なものにすぎない。だが時間は違う。失ったらそれっきり。あとで増やすことも取り戻すこともできない。
ひとりの時間を過ごせる力、孤独力はあまり評価されない。こと日本において、交友関係が少なかったり狭いのは人間性に問題があるからだという空気がある。会社つきあいを断り、単独行動をする輩を変人扱いし、価値が低いとみなす。自分がそうならないようにと、意味のない会議に出席し、つれだってランチに出かける。参加したくもない会社行事につきあう。あたかもそれを欲していたかのように。
日本人は群れたがる傾向が強い。
それを裏付けるような日本人団体旅行者を、ぼくは国外で多く目にしてきた。または国外で暮らす日本人駐在員たちを。背景には「自己主張したりせず、周囲と同じことをしなければならない」という同調圧力がある。価値観を周りと同じにしてないとダメ出しされるのでは?という恐れがある。そのことをぼくたちは、実に小学校から続くながい集団生活を経て植えつけられてきた。生活を安定するためには集団に属し、周りと同じであることが必要なのだと思い込まされてきた。他国にはあまりみられない「いじめ体質」の根幹がこれである。いじめはその人が残酷だからではない。群れたがる心理こそが原因だ。
口では「個性だ」「自分らしさだ」「オンリーワンだ」などという。自然に同調圧力に屈しているからこそ、そんなことが口に出る。中国人やフランス人はまずそんなことを言わない。言われなくたってじゅうぶんオンリーワンである。
群れたがる人からすれば「友達の少ない人」が哀れに見えるのだろう。ああはなりたくないと、自ら不安を打ち消そうと誰かとつるむ。群れたり、つきあいのある相手が多いほど、自分には価値があるのだと信じ込む。もちろんそんなことで自分の価値が上がることはない。むしろ、広範囲において過剰に同調しようとする努力が、ますます自分を追い込むことになる。
いま働く人のあいだで「心の病」が跋扈している。
ここ数年で増加した仕事によるうつ病患者数はおどろくほどである。労働時間がその元凶のようにいわれるが、そうじゃないとぼくはいつも思う。好きな仕事ならいくらでも長くやっていたいと思うのが人間だ。途中で止められるほうがストレスではないか。長時間労働が「心の病」の原因とするなら、その労働が好きでないことのほうに問題がある。なぜその労働が好きでないか? ここにスポットを当てるべきだと思う。
ひとつに「孤独を極端に恐れる」体質や世間体がある。排除されるのを恐れるあまり、周囲と同調する。それゆえの「つきあい」があり「価値の共有」がある。まちがった業務プロセスが発生し、必要のない会議にいやいや参加する。やりたいことと、していることに致命的なギャップが生まれ、時を経て縮まるどころか乖離していく。やがてなにも感じなくなる。頭をかがめ、流れ弾が当たらないようにして過ごす。
コミュニケーションはかつてと比べ大きく変容した。メールやスマホはぼくたちから時間と空間から自由にさせてくれた。そのいっぽうで、どこにいても電話は繋がり、メールは迷うことなくまっすぐ届く。なかった時代のことを思えば、すごく便利である。だが同時に、便利すぎることでいろんなことが不便になった。死角なきコミュニケーション機能は、かえってぼくたちを息苦しくさせた。情報のオープン化で、他人のアラ探しもカンタンに行えるようになった。ますます周囲の目を気にしなければならなくなり、気が休まらない。それで、さらに孤独を恐れることになる。ある種の不寛容が場を支配し、他人をダメ出しすることで自分の価値を高めようともがく。
もっと孤独であって構わない。
とぼくなどは思う。
群れることで安心するんじゃなく「弊害」を意識するべきである。周囲に合わせるあまり自分が何を感じ、何を欲しているかわからなくなる。レールから外れてしまえば、自分はまるで欠陥品ではないかと恐れる。だがそれは強迫観念でしかない。なぜなら、レールそのものが幻想であるということだ。共同幻想であればまだ救いがあるが、それですらない。ただのドン・キホーテの風車である。群れから離れることへの恐怖が生み出す蜃気楼である。
ひとりの時間をしっかり持ちたい。
他人ではなく、自分がほんとうはどう生きたいのかを問うべきではないか。その過程において、人間関係を整理するのはじゅうぶんあり得ることである。友だちは減り、仲間はいなくなるかもしれない。それを孤独と呼ぶのなら、呼べばいい。深く自分と向き合っていれば、おのずと関係が深まる人の存在がある。そのことを飲み仲間と話したことがある。「さみしい人生だな」と言われるが、同感だ。
言わせておけばいいではないか。
過ごす時間は人を裏切らない。
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