ミヒャエル・エンデ作の『モモ』。
物語には、人々から時間を盗む「灰色の男たち」が登場する。彼らに時間を盗まれた人間は時間の倹約を強制され、心の余裕をなくし、人間本来の生きかたを失ってしまう。この作品がドイツ児童文学賞をとったのは1974年のこと。あれから40年以上が経つが、今の人間たちは前より心の余裕ができただろうか?
少なくともぼくはそんなふうに思えない。「灰色の男たち」は、まだそのへんにうようよいるのだ。いろんなものに姿を変えて。もしかすると、あなたがいま手にしているスマホがそうかもしれないし、まだ捨てずにとってあるテレビかもしれない。提出物の書き直しばかりをさせる完璧主義者の上司かもしれないし、おしゃべりな同僚B子さんかもしれない。もしくは、あなた自身が他人の時間を盗んでいるかもしれない。
童話モモにでてくる「灰色の男たち」は時間貯蓄銀行からやってくる。時間を倹約して預けておけば利子がつき、あとで何十倍もの時間が得られる、と人々を誘惑する。「無駄な時間を銀行に預け、増やそう」と。ぼくたちが科学技術の進化に期待していたのは、そんな時間貯蓄銀行のような役割だったのかもしれない。
だが不思議なものである。
世の中はあなたの代わりに作業を請け負い、または素早く行われるなど、時間短縮するものにあふれている。1週間かかっていたものが数秒で届くようになり、出来合いのものがスーパーで買え、パソコンやAIが2つや3つのことを同時に、しかも自動でやってくれるようになった。こうして人々は時間を倹約でき、自分のために使える時間は増えている。だのに気がつけば時間がない。心に余裕もない。50年前と比べ、日本人の平均睡眠時間は1時間ほど減った。
いうまでもなく、失えば取り戻せないのは時間である。ちっともモノは減らないし、稼げばお金は増えていく。だが時間は増えない。1日24時間のままである。年利5%で増える時間なんて、ない。減るいっぽうで、増えない。預けたはずの時間はいったいどこに消えてしまったのだろうか。
計画的に仕事をすることは
未来を生きることであるよりは
未来を現在化してしまうことであり、
したがってこの現在において
仕事そのものを楽しむことでもなければ、
見知らぬ他者と出会う可能性に
開かれていることでもありえない。
計画策定段階で想定した
現在化した未来をこなしていくことなのである。
仕事はいつも「こなす仕事」
であるほかなくなってしまう(中略)これは「いい子」の生き方でもある。
こうあらねばならない自分が決まっていて、
生きることはそのあらねばならぬ姿との
隙間を埋めていくことを意味する。
そしてあらねばならぬ姿との隙間から
つねに自己評価を行い、
さらに頑張る。
そこには現在を楽しむことや、
不意打ち的他者と出会う可能性が
閉ざされてしまっている。
【出典「『モモ』における時間性:教育における計画再考」(越生達)】
前職では、膨大な時間と労力を使って事業計画を立て、年中、さらに多くの時間を費やしてすり合わせを行なっていた。なんで数字が合わんのだ? と。サラリーマン時代だけではない。自分の会社を経営していたときも、似たようなことをしていた。資本家から投資を引き出し、銀行から借り入れをするためだ。正確にやろうとすればするほど、時間は奪われ、手段が目的に沿わなくなってくる。本来やるべきことがおろそかになり、だのに互いに仕事をしているつもりになるといった共同幻想であった。いまにして思えば、あれも「灰色の男たち」の仕業なのだろうか。
人は生涯を終えるとき、やらなかったことを嘆くそうだ。あれをしたかった。これもしたかった・・・できなかった理由は決まって「時間がなかった」である。ときどきぼくは自分が死ぬところを想像する。もう次に目を開けることはないだろうと思うときだ。そんな自分に、いまのぼくが駆けつけてマイクをむける。死ぬ前に今のぼくに、なにかひとことお願いします!
おそらくぼくはこういうのだろう。
時間はあるうちに使っておけ
とっておいても、ひとつもいいことなんかない・・
あなたは、
あなた自身に何て答えるでしょうか?
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