地図のどこにあるのかすら知らなかったセネガルを訪れた。
きっかけは都内のイベントで知り合ったヤマダさん。2年と少し前、単身でセネガルに渡航し、事業を立ち上げた。まだ29と若い。ダカールで貿易業に不動産業、民宿と多角に経営しているという。ときおり嘆きもするが、セネガルを愛し、アフリカを愛しているのが言葉の端々にあふれる。さっぱりとした顔で苦労したことを、そしていまも只中であることを語る。さわやかな男である。
彼の話を聞いていると、どこかこそばゆい感じがする。かつての自分を見ているような気がするからだろう。だが当時のぼくより、彼のほうがずっと条件は厳しいのではないか。ゼロからの起業は同じでも、ぼくの場合はドイツや英国などのヨーロッパであり、彼はフランス語圏のアフリカの小国である。
彼を起業家にさせたセネガルとはいったいどんな国なのか? そういえば、セネガルなんてこれまで頭をよぎったこともない。なら行ってみようじゃないか。というわけで来てしまったのだ。いつものことだけど動機薄弱である。
セネガルの首都、ダカールには2時間遅れて到着した。
だがヤマダさんは、暗い空港の外でぼくの到着を待っていてくれた。タクシーを拾い、彼の経営する民宿へ。宿の名は「OMOTENASHI = おもてなし」。セネガルにも同じ意味の言葉がある。「テランガ」がそれだ。セネガル人の生活習慣である。
ひとはだれしも、もらった恩義に報いようとする心理がある。ヤマダさんがセネガルに尽くそうと事業を立ち上げたのは、渡航してきたばかりの彼を見ず知らずのセネガル人によって3ヶ月もの間、宿と食事の世話をしてもらったという経験だったという。いわばセネガル人のテランガの精神が、ひとりの日本人を変えてしまったということだ。あの経験がなかったら、今ごろ帰国してました。とヤマダさんは言う。
1泊 2千円ほどの部屋は、お世辞にも贅を施したものではない。床に薄いマットが敷かれ、天井から蚊帳がぶら下がっている。個室だが、トイレ・シャワーは共同である。タオルも持参すべきと知ったのは後のことで、借りることにした。客はぼくの他に日本からのインターン学生がひとり。「はじめまして」と、どちらからともなく交わす。彼は21才、父親は47だという。ついに、ぼくより年下の父親を持つ青年と宿仲間となってしまった。生まれは1995年だという。なんてことだ。1995年といえば、ぼくがロンドンで起業した年じゃないか。彼をしてぼくはいったい、どんなふうに見えるのだろうか?
ふだんはひとり旅が多く、旅先で日本人とすれ違うこともなくすごすのが常だっただけに、ひどく新鮮な気がした。ましてこの手の宿は、懐かしい。慎まやかな旅を好むぼくでも、おじさんになってからはさすがにゲストハウスはレアである。夜は蚊と格闘し、寝ぼけ眼のところをコーランに叩き起こされる午前4時。そう、セネガル人の95%はイスラム教徒であった。
眠ったつもりはなかったが、朝が来たので朝食をとる。
宿のとなりに24時間経営のちいさなキオスクがある。そこで気の弱そうなギニア人が淹れてくれるミルクティとチーズをはさんだバケット。「儲からないからセネガルを出るんだ」といい、タブロイド紙にバケットをくるんでぼくに渡す。350CFA(64円)。米大統領選挙結果が載ったタブロイド紙のインクの香りとミルクティーの香りが意外と合うのは発見だった。
セネガルで最初の朝をぼくはそのようにして迎えた。
ボン・ジュール!
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