はやくも安倍さんの政策に賛否両論。
日本の優先すべきは経済成長で、だからデフレ脱却が必要で、マネタリーベースを上げ、そのための金融緩和を進めるために日銀法を改正して、という流れは、イラ写にも書いてきたとおり、ぼくもそう考える。憲法改正や国防についても賛同できる。これまでは議論するというだけで「右翼だ!」と正体不明な言いがかりをつけられたことを思えば、日本もようやく変わりつつあるのかもしれない。
安倍さんは公共投資について「増やす」と公言している。あちこちで「バラマキじゃないのか?」の声も聞こえる。毎年20兆円を10年間投資し続けるというのも「そんなに借金してだいじょうぶか?」と憂慮する声もある。一番声が大きいのはあんがい財務省だったりするのだけど。
20代後半から30代のころ、道路地図はぼくのおともだちだった。遊びに仕事にクルマは欠かせず、ヨーロッパ中を縦横無尽に年間3万キロは運転していた。そのころはまだナビも普及していなかったから、もっぱらドイツの、あるいは全ヨーロッパの道路地図が大活躍した。地図を眺め、そこに想いを馳せるだけでも心が踊り、心が癒された。「そんなに眺めてよく飽きないね」と周囲から言われ、ポルノより目の保養になると答えたりした。
概ね西ヨーロッパと東ヨーロッパでは、延長距離というか、道路の数がまったく違う。特にドイツやベネルクス、スイス、フランスやイタリアあたりは道路が毛細血管のようにびっしりと張り巡らされているわりに、旧東ドイツやポーランド、ルーマニアあたりは、印刷ミスでもしたかのようにスカスカである。実際に東欧諸国の都市間を走れば、道路の質も悪く、迂回路がほとんどないことがわかる。印刷ミスでないことも確認できたのだが。共産国家はもともと「人とモノの移動」を制限していたから、わざと道路を少なくしておいたのかもしれない。
だが90年前後に共産主義国家は次々と崩壊した。道路はまさにその国の血管だと、地図をながめてはそう思う。走るクルマは血液だ。隅々まですばやく行き届けば血行が良いことになり、詰まりやすければ血液は汚れ、病気になりやすい。その意味でドイツや西ヨーロッパ諸国は健康だ。案の定、1990年統一ドイツ後は、アウトバーン(高速道路)の建設ラッシュに湧いた。旧東独のどこを走っても道路拡張工事を目にするようになった。
同じ目で日本道路地図をみれば、これが骨粗鬆症患者のように意外にスカスカなのだ。「山地が多いから」というのもあるのだろうが、この人口密度にこの道路は少なすぎるだろうという気がした。とくに4車線などの広い道路が少ない。調べてみると、制限速度60km/h以上の幹線道路の延長距離は日本2.2万kmで、4.4万kmのドイツの半分しかない。人口やクルマの数では日本のほうが多く、面積だって広いのに、だ。今じゃ韓国のほうが日本より多い。
単位:km【出典:国土交通省】
日本には道路が必要だ。
都市間の迂回路も必要だが、首都圏の環状道路も充実させてもらいたい。ミッシングリンクが多いのだ。ほんらい、道路はインターネットのように互いに補完し合えるネットワーク型が望ましい。ドイツがまさにそうで、障害に強く、かつ高速移動を可能にする。
それにしても、日本人の道路へのネガティブな感覚はいったいなんだろう?と思う。つい「ゼネコン汚職」「建設業界との癒着」などをイメージしてしまうのだ。「よけいな道路工事ばかりしやがって」という街の声をテレビで流し、「腐敗の温床となる道路は作るべきではありません」とニュースキャスターががぴしゃりと言う。そうだそうだと視聴者ははやし立てるが、はたしてそうだろうか?どうも合点がいかない。デフレ時にデフレギャップ(供給過多)を埋めるために政府主体ができることは、公共事業くらいしかないんじゃないか。そこに需要を発生させ、キャッシュを落として経済活動の血肉にするのはごくあたりまえのことじゃないのか。
普通の中進国と比べても見劣りする日本の高速道路事情。建設もあちこちで寸断されたままだ。首都圏の環状道路もそのひとつ。東西を行き来するのに用もないのに都心を通らざるをえないことで生じる渋滞や疲労、環境問題による経済損失も大きい。他の先進国都市との差はひらくいっぽうである。
▼ 首都圏環状道路計画
【出典:国土交通省】
97年以降、公共事業投資は年々減ってきている。
それでもかろうじて3年前に麻生政権がやろうとした公共事業投資を、民主党政権は一蹴した。スーツの襟を立てた女閣僚が出てきて「ムダ使いは許しません」と事業仕分けをしてみせ、国民をわかせた。がんばっていたが、なにをしたかったのかいまでもよくわからない。
公共投資といえど、行えば国内総生産(GDP)を伸ばせる。経済成長を促せる。だのに97年以降、緊縮財政と増税のダブルパンチで失業率と自殺率を上げ続けてきた財務省。菅政権時代は「道路不要論」を唱える論者を側近においた。「コンクリートから人へ」などとよくわからないスローガンをあげ、なんだかお花畑のような理想論を掲げてみせたがその後、それをあざ笑うかのように大震災に襲われた。
3.11の東日本大震災。
そのわずか6日前に完成した釜石山田道路(全長4.4km)は、津波で寸断された国道45号線を迂回する形で、被災者の移動を助け、震災後の物流に役立った。「あの道路が作られていなかったら」と思うとぞっとする。まるで震災が来ることを知っていたかのようである。また、宮城県沿岸を走る仙台東部道路は、高さ5.6m〜10.6mもの高さの盛土のうえに造られていた。これが防波堤の役目を果たし、津波の侵入を抑えることになった。東側は津波で被害に遭いながら、反対側では道路に守られほとんど被害なし。しかも高台の役目も果たして200人の尊い命を救いもした。
あの大震災は、実に多くの犠牲と引換に、この国にこれからどうすべきかを教えてくれた。いまなお教え続けてくれている。
福祉は天から降ってこない。
一部の人びとは「高度成長は不必要だ」「産業の発展はもうごめんだ」とか「これからは福祉の充実をはかるべきだ」と主張している。しかし「成長か福祉か」「産業か国民生活か」という二者択一式の考えは誤りである。福祉は天から降ってくるものでもなく、外国から与えられるものでもない。日本人自身が自らのバイタリティーをもって経済を発展させ、その経済力によって築きあげるほかに必要な資金の出所はないのである。【日本列島改造論 田中角栄著】
1972年の著書だ。だが、まるで40年後の2012年のことをいっているようにも思える。「バイタリティー」という言葉がなんだかまぶしい。ぼくもふくめ、最近の日本人が見失っているもののひとつではないかと思う。社会保障ばかりに気を取られ、まるでそのお金は天から降ってくるように勘違いする人びとはいまなおいる。むしろ増えたかもしれない。だが原資はともあれ、あなたやぼくが働いて、ひいては産業が発展していく中で得られるお金ということ。そのお金を生みやすい環境を整えるのは行政かもしれないが、頭を使い気を使い、手足を駆使するのはぼくたちである。
バイタリティー
いい言葉である。
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