よく仕事のデキる人は机の上が片付いている、などという。
ほんとうだろうか?
少なくともぼくの知る限り、「仕事がデキる人」と「机の上が片付いている人」とのあいだに、なにかしらの関連があったためしがない。そもそも仕事のデキる人は、あまり席にいないものだ。だから机の上が片付いているかといえば、そんなことはない。いない間に付箋がはられ、書類が持ち込まれ、誰かのみやげの温泉まんじゅうが置かれたままになっている。机は片付かないままである。ぼくの机の上を努めて片付けていたが、それは探すのがイヤなだけというのと、机は会社からの借り物で私物でないと考えるからである。仕事の出来不出来とはまったく関係がない。
なんとかセミナーや本を書いたりする人が「仕事のできない人は心のなかの整理整頓ができない人だから、机の上にもそれが表れるのです」と、まるでお告げのようにいう。もっともらしいが、ひとのこころを変えるのはむつかしく、また安易に変えようとするものでもない。
机の上が片付かないのは、単にそれぞれの置き場所を決めていないからである。または必要のない書類をいつまでも捨てないからである。ものごとには慣性があり、留まるものはそのままでいようとする。片付けられなければ、そのまま片付けられないままでいようとするだけだ。こころの問題では、ひとつもない。
自己啓発セミナーなどで、身なりの良い講師などが陥りやすいのが、こうした原因分析を「人のこころ」のせいにするところだ。仏の教えなどと、同じ趣旨のことをいう人もいる。ぼくはたまらなくこれが不快である。なぜならこの手のひとたちは、他人のこころを変えようと、不毛な努力を押しつけてくるからだ。
だれかが「ひとのこころが・・」などと口を開くとき、あなたは少し気をつけたほうがいい。問題のあるところ、ことごとく「ひとのこころ」に原因があるかのようにいうからだ。こころを変えるのはほんとうにたいへんなことだ。誰かのこころを変えようとする人は、「自分の都合の良いこころ」に変えようとするのが常である。そんなもの、無視していい。
仕事と人生はシンプルである。
問題があるとすれば「仕組み」を使って直せばいい。机が片付かないのなら、それぞれものの置く場所を決め、しまう仕組みを作ればいいし、いっそ机そのものを無くしてしまえばいい。席をフリーアドレス制にしているオフィスで、片付いていない机をぼくは見たことがない。これも仕組みである。
仕組みには、おのずと汎用性がある。
つまり同じ仕組みを使えば、だれもが同じ結果が得られる。だからぼくは仕組みのことを「テンプレート」と呼ぶ。また「方程式」と読み替えてもいい。世にあるさまざまなテンプレートを、目的に応じて自分のものにすれば、おのずと欲しい結果を自動的に得ることができる。これを結果の再現性という。
人から教わるとはそういうことである。逆に、
人にものを教えるには、良質なテンプレートが必要である。
他人にひとのこころは変えられないけれど、
良いテンプレートには、人生を好転させる力がある。
机の上が片付かないのは、こころが乱れているからではない。
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