反日暴動が収まってから時が経つ。
各地で襲撃にあったショッピングセンターも、ほとんど営業が再開された。あいかわらず日本製品を買わない中国人は多いが、それでも買ってもいいと思う人は4割まで回復した。半年過ぎれば熱さ忘れるといったかんじで、徐々に改善しつつある。もともと民衆の恨みは日本に対してじゃない。わりにあわない格差であり、政府や役人の不正、ひいては共産党のやり方に向けられたものである。反日暴動はその怨恨を転嫁したにすぎない。
怨恨の転嫁。
これは歴々の中国の支配者たちが自分たちに向けられる民衆からの恨みを、他に転嫁させる手法として使われてきた。たとえば1989年の天安門事件。平和的に民主化を求める丸腰の学生や一般市民に対し、中国共産党政府は戦車まで出動させ踏み潰し、機関銃による無差別虐殺をおこなった。折しも日本はバブル全盛期、東ヨーロッパでは立ち上がった市民により、次々に共産党政府が倒されたころ。チェコが、ハンガリーが、ポーランドが、ルーマニアが、そして東ドイツまで。次々と共産主義国家が崩壊し、自由民主国家が勝利を収めた。世界はこれからよくなっていくという機運。それが悲願であった東西統一を推進させ、ドイツは特に熱かった。ぼくが再びドイツへ移住したのもそのころである。
中国もそうなるかと思いきや、民衆は返り討ちにあい、一党独裁国家はそのまま残った。とはいえ、みんなが見ている前で市民を虐殺し、恨みを買った共産党政府は内心焦っていた。国際社会も怖いが、人民の恨みのほうが怖い。中国歴代の王朝(政権)は、民衆の蜂起によって倒されたのだ。そこで自分たちに向けられた恨みをなんとかそらしたい。どうするか?
日本を利用した。
人道に反する罪として国際的に受けた経済制裁を、まず日本に解かせた。あろうことか天皇を訪中させたのだ。そのうえ円借款を供与させた。それで恩に着るのかと思ったら、なんと南京大虐殺を持ち出してきた。
これが怨恨の転嫁である。「天安門の死者の数なんて、日本軍がやった南京大虐殺に比べれば大したことない。あっちは30万人だ。しかもレイプもだ。ひどいのはどっちか?」と、あることないことぶちまけた。自分たちに集まった怨恨を、53年前*1の日本軍に向けさせた。民衆をつかった「反日キャンペーン」は、思えばこの時にシステム化されたのかもしれない。
▲ 天安門事件は自由を求めて立ち上がる学生たちに、軍隊で押さえ込んだ中国共産党。戦車まで出し踏みつぶした。人間も。そして自由も。
南京大虐殺がクローズアップされたのは、日本では戦後何度かあったが、中国国内ではこの時が最高潮であった。日本が大嫌いな江沢民の時代でもあったからだ。粗悪な反日映画やドラマが作られ、毎日のようにテレビで流された。新聞・雑誌は特集を日本人がやったとされる蛮行の記事を組む。「敵は同じ中国人や共産党政府ではない、日本であり日本人である」と。これは思いのほかうまくいった。中国のことわざに「賊喊促賊(ぞくかんそくぞく)」というのがある。「泥棒はあっちだ早く捕まえろ!と叫ぶ泥棒本人」という意味に使われるが、「南京」はまさにこれである。
南京大虐殺はもともと信ぴょう性に乏しい。本来なら「史実として正しいかどうか」が争点のはずだが、中国共産党にとって南京大虐殺は政治問題。あったことが大前提だ。でないと政治的に立場がない。しかも30万人という規模の大虐殺でないと「天安門」の怨恨の転嫁としては弱いのである。国際社会からの批判もかわそうと、反日ネガティブキャンペーンは国外にも及んだ。
日本のマスコミや日教組はその先鋒として、靖国参拝問題や歴史教科書問題など、中国が嫌がりそうなことを先回りして批判する習慣がなぜかある。定着すらもした。日本政府もそう、河野談話(1993)、村山談話(1995)は政権が変わるたびに踏襲されていく。そのおかげもあり、中国がなにか日本に対してヒドイことをしても「日本だって中国にひどいことをしたからね」などと相殺するクセがついた。相手に悪いと思うのが日本人で、相手が悪いと思うのが中国人なのかもしれない。
1995年、ぼくが個人では初めて作ったホームページ(という言い方も古いですね)は「歴史を問う」という南京をテーマにしたものだった。当時ぼくは、どちらかといえば「大虐殺はあったのでは?」というスタンス。それが調べていくうちに「なかった」へと考えを改めた。よくもまあこんなことでだまされていたもんだ、と。メディアリテラシーの大切さを学んだのもそのころである。
当時の新聞記事がある。
記事を書いたのは『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者。特派員として南京城内で取材をしていた。日本軍が南京城内に攻め入ったのは1937年12月13日。その6日前の南京市内の様子を配信したものである。新聞記事はそれを翌日、朝日新聞が報じたもの。日本軍が破壊し住民を虐殺したといわれるが、実際には「焦土作戦」を実行した中国軍の仕業だということがわかる。中国軍は逃げるどさくさに、民家に押し入り金目の物を強奪し、住民を犯し、殺し、火をつけたのだ。
▲ 「南京市から10マイル地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるようなものはすべて焼き払おうとしている」とニューヨーク・タイムズ発の記事を掲載【朝日新聞1937年12月8日】
▲ 翌日には「日本軍の空襲や砲撃は軍事施設に限られているのに、中国軍は自らの手によって(町を)破壊している」というニューヨーク・タイムズ発の記事を掲載【朝日新聞1937年12月9日】
首都南京(当時)を中国軍自らの手で破壊しているさまを、最高司令官であり南京政府の首脳である蒋介石は嘆きつつも、身の保全を優先し、日本軍が攻めてくる前にさっさと逃げ出してしまう。南京防衛司令官である唐生智将軍も遁走してしまった。そのことをニューヨーク・タイムズは強く批判。南京の混乱の責任は中国首脳陣にあると。
▲ 現地にいる外国人記者の報告を元に朝新聞が報道した記事。中国の敗残兵による略奪・強姦がひどいとある。【朝日新聞1937年12月10日】
▲ 無用な戦闘を避け、南京城内を戦場にしたくないという思いから、日本軍側は立てこもる中国軍司令官に「降伏勧告」を発布。回答を要求するも返事なし。無理もない、司令官はとうに逃げ出していたのだから【朝日新聞1937年12月10日】
そのような状況の中、南京城外にたどり着いた日本軍は、城壁をよじ登り(南京市内は高い城壁にぐるりと取り囲まれていた)城内の中国兵を一掃し、ついに南京を占領した。敵国の首都を占領するのは日本建国始まって以来の快挙。さっそく日本軍の後に続き、日本の新聞記者たちも続々入ってきた。 なのでこのあたりから写真入りの記事が日本の新聞に掲載されるようになる。
▲ 平和が戻った南京ではさっそく露天が開かれ食事などができるようになった。これは水餃子を食べさせてくれる露天で腹ごなしをする日本兵。恐る恐る近寄る子供の表情が微妙だ。だが戦後言われているように「子供は容赦なく殺した」という噂がもしあったなら、決して近寄りもしないだろう。料理を出している女性はごく普通の表情。その横で「女なら8歳から70歳まですべて強姦されたという南京大虐殺」が起きているとはとても思えない。【1937年12月15日撮影:佐藤振寿氏】
▲ 日本人カメラマンがカメラを向けると市民のこの表情。子供を抱え上げ眼を細める市民に、日本人への信頼感がにじむ。中国敗残兵にはひどいことをされたはずだから。【1937年12月15日撮影:佐藤振寿氏】
▲ 「南京は微笑む」という両面特集でとりあげられている写真。日本兵からもらった車のおもちゃで遊ぶ子供の楽しそうな表情といったらない。【1937年12月25日 朝日新聞】
▲ 戦闘終了後、防空壕に隠れていた女性と子どもたちを日本兵が保護した時の写真。彼女らの穏やかな表情から、日本兵が中国の市民たちにどう接していたか、みてとれる。【1937年12月16日 朝日新聞】
▲ 南京城内の安全区(避難民の居住区)で菓子などを配る日本兵とそれに群がる中国人の大人と子どもたち【1937年12月17日撮影:佐藤振寿氏 】
南京占領直後、逃げ遅れた市民たちと牧師や駐在員、新聞記者などの外国人らおよそ20万人。それから一ヶ月後、住民は25万人に増えた。「南京は安全」と伝わり、避難していた人びとが戻ってきたからである。食糧配給のこともあり、占領後の南京は人口が細かくチェックされていた。
また南京は当時、中華民国の首都であった。ゆえに戦争が始まっても各国の報道記者が居た。日本軍がやって来る前から駐在していたのは、AP通信、ロイター通信、パラマウントニュース社、ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズ、シカゴ・デイリー・ニュースなど。占領後はこれらに加え、日本の新聞社が合流した。しかも朝日新聞だけで80人、東京日日新聞(今の毎日新聞)が70人もだ。その他NHKや読売新聞、各地方新聞などぞくぞくとやってきた。だから当然、そこに何かがあれば直ちに報道されるだろう。報道規制は事実上、無かったのだから。
日本人が南京大虐殺なるものを寝耳に水で知ったのは、9年もあとの東京裁判に証言によるもの。しかもその証拠はひどいものだった。反証として、以上の写真や報道記事らが提出されたが、無視された。あの裁判が出来レースであったのがこのことからもわかる。
それでも南京大虐殺は「あった」として、今でも日本の子どもたちは学ばされている。
日本軍は南京の占領に際し、多数の中国人を殺害し、略奪・放火・暴行をおこなった」【第一学習社 日本史A】
日本軍は南京市街で捕虜・投降兵を始め女性や子供を含む中国人約20万人を殺害し、略奪・放火や女性への暴行をおこなった【実教出版 日本史A】
中国の失政による「怨恨の転嫁先」にされるのはうんざりである。彼らを手助けしている人たちもまた同様だ。朝日新聞、毎日新聞は中国の言い分ばかり聞いて記事にせず、実際に現地を取材し報道していた自分たちの先輩に訊けばいい。第一次資料は自分たちの書庫に眠っているのだから。
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