昭和初期のことを、まるで暗黒時代のように、ぼくたちは学んだ。言論統制がしかれ、国民は言いたいことも言えず、軍部が暴走するままに泥沼の戦争に引きずられたと。
もちろん、たいていの戦争は軍部の暴走によるものなのだろう。戦争を起こさないようにするには軍部の暴走を許さなければ良い、というのもわかる。案の定、戦後の日本などは「軍なんてどうせ暴走するんだから持たなければいい」という考えが占めた。それで安泰だった時代もあった。だが終わりつつある。たぶん元には戻らない。米国の軍事プレゼンスは下がり、中国は軍事力を急速に増している。北朝鮮は核もミサイルも持つようになった。東アジアのパワーバランスは崩れたのだ。
結果には、起因するなにかがある。
たとえば1931年9月に起きた満州事変。これがなければ太平洋戦争もなかったかもしれないほどの大事件。その後の世界情勢を一変させたのだ。異説はあるが、関東軍の謀略がホントなら軍の暴走ともいえるだろう。
でもそんな暴走を支持したのは国民だった。しかも熱烈に歓迎した。さっそく人々から慰問金(いまの価値で数億円)が集められ、満州の兵士たちに送られた。これは軍の徴発でもなければ政府の要請でもない。全国規模で自発的に行われたのだ。国民に支持された軍事行動を、ただの暴走とはいい難くなってくる。
ではなぜ、国民は支持したのか?
当時の時代背景をひもとく必要がある。
1931年(昭和6年)の日本は、今と比べても文化的で便利な生活を営んでいた。だがそれは首都圏などの都市生活者に限ってのことで、農山村で暮らす人々の暮らしは悲惨で過酷であった。文明からも切り離され、電気は白熱灯がひとつ、煮炊きはかまどや囲炉裏のまま。江戸時代とたいして変わりない生活である。その上、1929年の世界大恐慌により農産物の価格が暴落し、歴史的な不作がこれに追い打ちをかけた。東北では家族を餓死させないために口減らしに娘が娼館に売られ、息子が奉公に出された。そのいっぽうで財閥などは、資金力にものをいわせてボロ儲けしてもいた。富裕層と貧困層、格差はみるみるうちに広がっていった。
こうした農家の窮状に対し、政府は有効な手がうてなかった。当時の首相はいま以上に権力がなく、短命である。長期的視野はなく、いささか深慮に欠いた政策が単発的に行われた。当時、農家は日本の就労人口の半分を占めていたし、農村の子は都市で就職のは簡単ではない。優秀な子供は勉強し、軍人を目指した。軍は出身に関係なく開かれていたからだ。
帝国陸海軍将兵はそのような貧しい農村出身者が少なくなかった。5.15事件や2.26事件などは、そんな農村の窮状に涙し、日本を変えねばと使命感にあふれた青年将校たちが立ち上がったという側面もある。兵隊さんは庶民の味方で、頼りになる存在であったし、兵隊もまたそうありたかった。平気で自国民に銃口を向けるどこかの国とは大違いなのである。
満州事変が起き、満州帝国が建国されたとき、国民は全土でわき返った。久しぶりの明るいニュースとして。夢破れた青年実業家にとっても、狭い農地にしばられて飢えた農民たちにとっても、満州の大地は希望あふれる新天地だったのだ。米国の排日移民法以降、日本人は移民が禁じられていたのだから。
いっぽう中国(当時は中華民国)は満州建国を不服とした。現代の感覚からすればまっとうである。中国は国際連盟に日本を提訴し、連盟はこれを受け、リットン調査団が派遣された。調査後まもなく「満州国は日本の傀儡であり国家でない」と報告された。多くの日本人はこれに腹をたてた。数万人の命と引き換えに(日露戦争のこと)、ロシアから土地を解放してやったのは誰のおかげかと。事実、リットン調査団も、日本に満州の権益が優先されることに理解を示していたし、彼らの撮影した満州のようすをみた国際連盟のメンバーも、短期間であれだけの成果を見せた日本のインフラ能力を絶賛したのだ。ロシアの領土のままだったらこうはいかなかっただろうと。
▲ 国際連盟の指示により満州鉄道で事件の検証をするリットン調査団
日本側の主張を通し、そのため国際連盟を脱退して帰国してきた松岡外相を、国民は国を上げて「よくやった!」と大歓声で迎えたのだ。松岡本人が面食らうほどに。マスコミもこれを大いにあおった。
こうして日本は満州事変の2年後、国際連盟を脱退した。
だが政府としては、米国との関係修復はなんとかしたかった。なにしろ当時の日本は石油の8割を、屑鉄のほとんどを米国から輸入している立場である。ケンカをする相手ではない。いっぽうで米国は中国の、そのために満州の権益を狙っていた。だが満州は日本政府というよりは関東軍という軍部が牛耳り、国民は米国の言いなりになろうとする政府よりも軍部のほうを支持した。満州の権益を米国とシェアするつもりはないとする日本に米国は腹をたて、経済制裁することにした。
▲ 国際連盟ジュネーブ会議で脱退を宣言し、会場を退出する松岡外省
経済制裁の口火として屑鉄の日本向け輸出を禁止。これに焦った日本は、他に輸入先を求め、オランダやブラジルなど各国と交渉するものの、米国のじゃまがはいって失敗。さらに米国は日本と戦争中の中国に軍需物質を送っていた。しびれを切らし、日本は仏領インドシナ(ベトナム)に進出。米国からの支援ルートを遮断し、石油の確保を目指した。これに我慢がならない米国はついに日本向け石油の輸出を全面的に禁じ、米国にある日本人の預金を封鎖するなど、対日資産の凍結を断行した。ますます国民は米国に恨みを抱くようになる。マスコミに煽られるまま「米国討つべし!」という世論が猛威を振るった。政府はこれに焦った。日本政府としては米国と戦争などしたくなかった。海軍も米国との戦争だけは避けたかった。陸軍もだ。仮想敵国はあくまでもソ連。米国まで手が回らない、と。
1940年になると、ヨーロッパから同盟国ナチスドイツの快進撃が伝わってくる。ベルギー、オランダを降伏させ、ついにはフランス、パリが堕ちた。さらに英国軍を大陸から追い出し、ロンドンを空襲し、北アフリカを攻め、ついにはソ連に宣戦しモスクワに迫る勢いである。ドイツ強し!そんなドイツと組んでいるんだから、日本がアメリカと戦争したって勝てるかもしれない。そんな考えが国民の中に湧いてきた。米国との戦争をシミュレーションした小説が人気を博した。
これが軍部の暴走かと思う。むしろ大衆であり、大衆世論を形成してきたマスコミの暴走だったのではないか。
明治以降、日本が外国と戦争をするたびに発行部数を伸ばした新聞各社。日露戦争の前後では、平均3倍に増えている。「戦争は儲かる」と確信したかもしれない。南京が陥落したときなど、毎日新聞(当時は東京日日新聞)だけで70人もの記者を現地派遣した力の入れ具合をみてもわかる。
▲ 主要新聞の購読者数の推移【参考:明治・大正のジャーナリズム(岩波書店)】
マスコミが形成する世論の力は大きい。中国など共産諸国はそれがよくわかっていたからこそ、これを牛耳り、思想教育の手段としたのだ。
戦争を起こさないようにするには、軍や政府をシビリアン・コントロールすることも大事だが、同時にマスコミに対してもそうである。そもそも従軍慰安婦問題や南京大虐殺などの自虐史観を広め、中国北朝鮮をして日本を責めるなら何をしてもいいという正当性を与えたのは、実は日本のマスコミだったという事実もあるのだから。
▲ 日本軍が慰安婦を強制連行したことを証明したという資料が見つかったと朝日新聞は第一面でスクープ。実はこの資料「朝鮮人の人さらい業者」を軍でも取り締まりなさいと命じたというもの。先日の国会であらためて中山議員が喝破してました。
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