たいていの日本人は日本語しか話さないかもしれない。
母国語しか話さない民族は、世界からみるとめずらしいほうでおよそ3割ていど。残り7割はバイリンガル、トライリンガル、あるいはそれ以上なにかしらの言語を話す。だから日本人はダメなんだ、というのは早急だ。日本語だけでこれほど高度な情報が得られ、暮らしている事自体が実はスゴイのである。
世界には200以上の国があり、6000もの言語がある。1カ国あたり30も言語がある計算になるが、単一民族であり単一言語があたりまえの日本人(アイヌといった先住民もいるにはいるけど)にはピンと来ないかもしれない。モノリンガルでいられるというのは、この意味でもスゴイ。メディアも公式文書も挨拶も講義もたった1つの言語ですむからだ。世界にはまだまだ部落、地域ごとに言語がある国がある。ネパール1国で120も言語があるといわれる。これでは文化や科学が末端まで伝わるには何かと不都合だろう。経済発展にも影響しそうだ。
それにしてもこれだけの言語数である。そこにはいにしえより培った文化や環境、習慣、あるいは人の性分も影響されているのだろう。だから異なる言語同士が、すべて翻訳されるには無理がある。例えば日本語の「いただきます」はどう訳されるのか? または「たおやか」の訳は、単にRichだけではないはずだ。そんなふうに考え始めるときりがない。やはりどう訳してもニュアンスが伝わらないワードが残る。他国にはまだまだ、発想すら及ばない単語が存在するのだ。
こうした「訳せない言葉」を紹介している”LOST IN TRANSLATION(エラ・フランシス・サンダース著 )”という本がある。いくつか引用してみたい。
1. Resfeber(レースフェーベル:スウェーデン語)
「旅に出る直前など、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキする状態」
あなたにも思い当たる経験があるかもしれない。こういう気持ちをひとことで表せるなんてスウェーデン人ってなんて旅好きなんだろう。「来週から旅行だよね?」「そうなんだ、それでいまちょっとレースフェーベルなんだよ」とかいう会話をするんだろうか。
2. Starisvogelpolitiek(ストラウスフォーゲルポリティーク:オランダ語)
「悪いことが起きているのに気づかないふりをしていつもの調子でいる状態」
直訳すれば「ダチョウ政治」。でもこれじゃなにがなんだかわからない。オランダ人は、ダチョウに政治をさせると見て見ぬふりをすると考えるらしい。意外性があって、ちょっとおもしろい。次に、オランダ語をもうひとつ。
3. Gezellig(ヘゼリッヒ:オランダ語)
「単に居心地がいいだけでなく、あたたかく心が快い感覚 愛する人と共にいるような感情をあらわす」
気持ちがいい、心地良い、だけだとこのポジティブであたたかい感情は言い表せないのだろう。そういう感情を表す言葉をワンワードでもつオランダ人は、こうした気持ちでいることに素直であろうとしているのかもしれない。
4. Srimpatikus(シンパティクシュ:ハンガリー語)
「初めてであったとき、直感的にその人が良い人だと感じるときの表現」
人は出会いと出会いの中で生きている。初対面の印象はそれぞれだが、たしかに直感的に「このひとは!」と思えることがある。シンパティクシュな出会いがこれからも続きますように。
5. Drachenfutter(ドラヒェンフッター:ドイツ語)
「夫が悪いことをして、それを許してもらうためにおくるプレゼントのこと」
直訳では「龍の餌」。もうそれだけで情景が目に浮かぶ。悪びれる夫とドラゴンのように怒り狂う妻。実をいえばドイツ人は恐妻が多い。あまりほめられたことではないが身に覚えもある。怒った女性がドイツ語でまくし立てると、それはそれは恐いのだ。
6. Murr-ma(ムルマ:ワギマン語)
「水の中で、足だけを使って何かを探すこと」
ワギマン語とはオーストラリア先住民の言語のひとつ。きっと足の裏の感覚がとぎすまされていたにちがいない。とも思うが、日本語で言う「手探り」に近いのかもしれない。暗闇の中でモノを探す。先が見えないときに出たとこ勝負する。といった意味合いなのかと。
7. Ubuntu(ウブントゥ:ズールー語)
「あなたの中にわたしの価値がみてとれ、わたしの中にあなたの価値がみてとれるという意味合いで、人のやさしさを表現したもの」
コミュニケーションサーバーのOSに、たしかそんな名称があったのを思い出す。「やさしさ」というのを因数分解するとたしかにウブントゥなのかもしれない。ふだんはそんなことを意識することはないけれど、やさしさには「相手を慈しむこと」以外にいろんな意味合いがあるのだ。
8. Cotisuelto(コティスエルト:カリブ・スペイン語)
「シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男性のこと」
そのことをワンワードにして表現するところがカリブである。かつてシャツを外に出すのは日本では不良がすることだった。いまはそうではないけれど、もしかしたらコティスエルトも意味するところは「キザな不良」なのかもしれない。単に暑いだけかもしれないが。
9. Pisan Zapra(ピサンザプラ:マレー語)
「バナナを食べる所要時間」
マレーシアではみな、バナナを食べる時間が共通なのだ。時間にして2分。利用シーンとしては「そんなのバナナを食べる時間で終わらせるさ」といったかんじだろうか。日本語で言う「朝飯前だ」というニュアンスかもしれない。とすれば「バナナ=朝食」。なんだそれぼくのことじゃないか。
あれだけやっても不得意なままの英語にビビってしまい、つい外国語に尻込みをする日本人は多い。でも以上で紹介したように、言葉には土地や習慣が堆積された特有の表現があって、知らないままだともったいない気もする。お互い相手の母国語が話せないとき、おたがいたどたどしく英語を使ったりするが、それだと相手国の文化の深さがなかなか伝わらないもの。それに互いの文化に深みを感じれば、敬意も生まれるし愛おしくもなるかもしれない。争いも減るかもしれないが、この点については自信がない。いずれにしても、互いの言語を知り得る環境はずいぶんととのってきた。あとは意志だけである。