トルコはなぜ親日なのか?
親日的といわれるトルコ。
理由はいくつもあるが、そのひとつに100年以上昔に和歌山県沖で遭難した自国民69人を日本人に助けられた(エルトゥールル号遭難事件)を、美談として後世に伝えていること。学校の授業で習うからたいていのトルコ人が知っている。イラン革命時、今度はトルコ航空をして日本人を救出した。美談は交換されることでさらに好感度が増す。トルコ人は日本人に好感を持ち、日本人もトルコ人に好感を持つ。同様にリトアニアやポーランドでは戦時中の杉原千畝の命のビザのことを後世に伝えている。
だが美談は、政治の前には無口になるのも事実である。
例えば1942年、中国河南省で発生した大飢饉を救った日本軍のエピソード。自衛隊の災害派遣とはまた、規模と意味あいがぜんぜんちがう。餓死者は実に300万人、難民300万。想像を絶する。難民の中には途中行き倒れたり、殺し合いに巻き込まれた。殺されたほうは、その場で食べられた。あるいは食肉として市場に売られた。世界でもまれな人肉市場は実際にあった。死体はいくらでもあったから、市価は1/10まで下がったとある。
美談は政治の前に無口になる
中国政府は「難民が死んでも土地は中国のままだが、兵隊が死んでは日本軍に土地を奪われる」と考え、食料を優先的に軍に回した。当時は日中戦争の最中でもあったのだ。国に見捨てられ、兵士に食料を奪われ、わずかな備蓄を役人に徴税としてもっていかれた民衆は、木の皮をはぎ、根を掘り起こしては食べ、泥をすすりながらかろうじて生き延びていた。やがて、娘を売り、しまいには自分の子供を蒸して食べたりもした。累々たる死体。それを食いばむ鳥や犬。酸鼻極まる絶望の大地である。はたして彼らを救ったのは、そこへ進軍してきた日本の将兵たちであった。
日本将兵は酸鼻に包まれた土地に驚愕し、屍に食らいつく犬をはねのけながら、まだ息のある人々に糧秣をほどいては与えていった。足りなくなると他の土地から新たに調達した。泥沼の日中戦争はいつ終わるともしれず、糧秣は戦場に近いほど貴重だったが、躊躇はなかった。この英断はすばらしい。戦う相手は敵の兵士であり、敵国の民衆ではないのだ。
日本軍の食糧放出により、どれほどの人たちが助かったか確かな記録はない。歴史は記録を残すことを拒んだ。それが敗戦というものである。歴史は勝者によって書き残され、敗者に美談があってはならないのだ。でないと自国民を見捨てた中国政府の非難につながる。勝利した正統性を失う。
こうして美談は政治の前に無口になった。実はアメリカ人記者も現場に立ち会い、日本軍による人民救済についても知っていた。だが当時のアメリカは日本と戦争中。プロパガンダ的には蒋介石政府をはやし、日本をこき下ろさねばならない。またしても、美談は政治の前に無口になった。
だが、救われた民衆は恩を忘れなかった。
1944年4月、河南省で日中で大きな戦闘があったとき、民衆はこぞって日本軍に味方した。大した装備もない6万の日本軍が、三国志で有名な「許昌」を死守する重装備の30万中国軍を相手に勝てたのも、民衆たちが自軍の情報を日本軍に与え、自らも鍬や鎌を手にして中国兵士たちを襲ったからである。亡くなった家族や友人たちの仇をとったのだ。これはある意味、美談の交換にもなり得るが、もちろん記録は残されなかった。日本側も戦後は敵国条例(戦勝国の悪口を言ってはならない)などもあって、歴史から消された。真実を語れず、歴史に負い目を着せられ、忘れられていった。ぼくたちは文字通り「戦争を知らない子供たち」である。無理もない、教えられていないのだから。学ぶべき姿勢もなかったが。
中国の大飢饉を救ったのは日本軍だった
このことが明るみになったのは、2000年9月に人民文学出版社から出版された『温故1942』という劉震雲の手記による。タブーである日本軍の美談につながる内容が、日中友好ムードのほんの間隙にをついて、世に出ることになった。その後はひっそりと、しかし読者へ確実に衝撃を与え続け、ついに2013年に映画化された。映画では大飢饉の惨状が描かれはしたが、日本軍による救済は、民衆を味方にするための方便とし、美談にならないようアレンジされた。日本軍が民衆に食料を与えるシーンは登場せず、日本軍将校をして「わが軍に味方するよう民衆に食料を与えよ」と語らせたに留めた。
そもそもなぜあのとき、肥沃なはずの河南省で大飢饉が発生したか?
実は、天候などの自然災害によるものではない。だいいち凶作が原因で300万人も餓死したりなどしない。つまるところ日本軍の進軍を遅らせたり、現地調達されたりしないよう、中国(蒋介石)軍が先回りして焦土作戦を行ったからである。橋を壊し、ダムを決壊させ、井戸に毒を流し、畑や民家を燃やす。戦闘が行われてもいないところで火が上がり、食料が強奪され、婦女子が暴行に遭ったのもこのためだ。信じがたいことだけど、敵を弱らせるためなら、自国民への犠牲を惜しまない。主客転倒はなはだしいが、「人民を盾にする」のは中国大陸ではわりと伝統的な行われた戦法である。
1900年代に中国大陸で起こっていたことが、ありのまま伝わっていれば、対日感情はいまよりずっと良くなっていたのではないか。そうすれば今も日本は中国とうまくやっているんじゃないか。そう思う一方で、果たしてそうだろうかと釈然としないものがある。大飢饉の原因となった中国軍の焦土作戦は、そもそも日本軍が攻め入らなければ実行されなかった。とすれば、無辜の600万人の餓死・難民は被害に遭わなくてすんだかもしれない。仮に日本軍が食料を与え民を救ったとしても、それが美談といえるんだろうか?
歴史が政治利用されるのはあたり前、情報貧者こそ罪である
歴史が難しいのはそういうところだ。
史実がどうあれ政治的意志が介入すれば、白は黒になる。後世への語られかたも変わる。対日感情が悪いといわれる中国人に、じゃあいったいどんな災難が自分にあったかと訊かれれば「特にない」としかいいようがない。ひどい目にあったのは戦禍に巻き込まれた河南省の民衆たちであり、報復に遭った中国兵や獄死した日本兵たちである。冥福を祈るしかないが、だからといっていまの中国人がいつまでも日本人を嫌ったり、逆手に取って日本人が中国人をバカにするのも筋違いである。歴史から学ぶものがあるとすれば、人間の争いはたいてい自分たちにこそ正義があり、相手にはそれがないという思い込みから始まっている。いわば正義の奪い合いである。
このエピソードをはじめて知ったのは10年も前のことだが、記事にしたのはたぶん初めてである。うまく解釈できなかったのだ。ともすれば「ほらみろ日本軍はいいこともやってたじゃないか」という記事になってしまう。それではただの揺れ戻しである。自虐史観に対する当てこすりである。日本に旅行に来る中国人を「爆買いツアー」などと面白く語るが、彼らの持つ対日感情と、一度も日本に来たことのない中国人の対日感情は圧倒的に前者のほうが良い。あたりまえである。身を使って得た情報を持つ者の方が、そうでないよりまっとうな感情を持つ。
相手を責める前に、まず情報貧者にならないことである。
そのために自由に発信できるメディアがあり、自由に行き来できる機会の多くをぼくたちは持つ。
大いに活用したい。せっかくこの時代に生きているのだから。
政治利用から歴史を救うのは
あなた自身でありぼく自身である。
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