1986年4月26日、ぼくはベラルーシからポーランド南部にいた。
アウシュビッツ収容所を見たあとで、カトヴィツェという街で安宿にありついたところだった。その日の未明にチェルノブイリ原発第四号基で大爆発があったのを知ったのは5月のはじめにドイツに戻ったあとで、事故現場はすぐ近くのウクライナ(当時はソビエト連邦の一共和国)だったと聞かされた。知る由もない。それまで汚染されていたかもしれない食事をし、たっぷり雨にうたれていた。
放射能に汚染されているからと人々はしばらくミルクを飲まず、ほうれん草などは市場から消えた。ドイツ人は放射能に対し過敏なほど神経質だった。「おまえは広島で生まれただけでなく、今度はポーランドで被曝するなんて」と同情する友人もいた。大きなお世話だった。風評被害もひどく、「奇形児が生まれるから」と、世界中で10万人もの赤ちゃんが堕胎された。
2011年に福島第一原発事故が起こってから、遡ること25年前のチェルノブイリの事故がどうだったか世界中の人々が想いを巡らした。 両者を比べてみる。
大気圏への放出放射能
深刻な放射能汚染地域
避難者数
事故後の作業による死亡者
チェルノブイリの被曝によって今後発生する死亡者は、ガン死を含めて4000人といわれる。当時、3万人が死ぬとも40万人が死ぬとも言われたが、27年たった今でも特定が難しい。いっぽう、原発再稼働の是非をめぐって百家争鳴の日本。だがチェルノブイリでは半年後、ためらいなく1号基から3号基までを再稼働、2000年に任期を終え停止させるまでウクライナ全土に電気を送り続けていた。半年止めたのは事故基を石棺で覆っていたからだ。
チェルノブイリに行こう。
そう心に決め、旅先をウクライナにした。27年経た今でも30km圏内に住民を近づけさせないでおきながら、いっぽうで原発を稼働し続けたウクライナの事情や世論はどうなのか。遺棄された町や村はどうなってしまったのか、放射線量はどの程度なのか、自分の目で確かめ、考えてみたいと思った。あるいは、被爆者であることを両親のどちらかが知れば、産んでもらえなかった自分の出生への執着かもしれない。原発事故は健康被害よりも風評被害のほうが甚大ということをそんな事情から知り、福島第一原発事故以来の日本でいやというほど学ばされたから。
▲チェルノブイリ原発訪問ツアーでガイドが身に着けていたガイガーカウンター
つづく
おまけ
反核、反原発はロッカーたちの格好のテーマになりました。RCサクセション、Mute Beat、そしてザ・ブルーハーツはずばり『チェルノブイリ』を発表。ぼくたちのバンドもカバーしたものです。
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