たばこをやめてからだろうか?
じわじわと満員電車の匂いが気になるようになった。体臭、口臭、加齢臭。化粧品の匂いや古雑巾のような匂いもする。外国人に比べれば日本人の体臭なんてどうってことないけれど、東京の通勤電車は世界でも比類ないほどの人口密度。さすがにそうもいってられない。本当に気持ちが悪くなって、たまに下車することもある。ぼくのような中年オジサンがそうなんだから女性はもっとつらいんじゃないか。たとえばぼくがもしあと20cm身長が低かったら、この密着度に耐えられるだろうかと心配になる。
相手が匂うということは自分も匂うということでもある。自分は大丈夫だろうか。そう思うのがこの国では自然だ。被害者はまた、加害者になりうる。相手を不快にさせ、ときに電車から降ろしてしまうこともあったかもしれない。そんなふうに考えてしまうこと自体、長く日本に住んでいる証かもと思う。民族的に体臭の少ない日本人、だのにこの国には多種多様の消臭・デオドラント商品が売り場にあふれんばかりにある。この傾向、ほかの国にはちょっとない。
無臭がいちばん。そう考えるのが一般の日本人に対し、欧米人や中東あたりの人は臭いを香りで上書きしようとする。ボディソープの匂いも半端じゃない。なかには「まだ体臭の方がましだったかも」てなくらいばしゃばしゃと香水をふりかける人もいる。1時間前その人がここにいた事を感じるさせるくらいに。犬ならば2週間経ってもわかるかもしれない。そんな人と食事をしたら、きっとうまく食べられないと思う。
キツイくらいなら無臭のほうが無難。
それがいい。でもよくよく考えてみれば、それはそれでちょっと寂しい。匂いは記憶に絡まりやすいから、無臭だとそのぶん印象に残りにくいかもしれない。いまぼくたちはいろんな手段で他人とつながることができる。そうなると、メールより手書きハガキ、というふうになっていき、最後は「会う」ことがもっとも貴重で価値が高いと認識される。となると、会うことでしか得られない「匂い」はその人の大切な属性のひとつであるように思う。でも残念ながら「自分の匂い」というものに、ほとんどのひとが無頓着なのが現実だ。とくにニッポンの男は「匂いは無いほうが潔い」と思うフシがある。むしろ女々しい、と。
だが、匂いのない人間なんていない。
体臭やら生活臭やら体調により、実に色んな匂いを漂わせながら生きている。満員電車の匂いは、それらが濃縮還元されたものだ。これには「匂いなんて」と考えているオジサンたちもたっぷり貢献している。
「匂い」はあるのだ。しょうがない。
しょうがないんだからうまくつきあっていくほかない。消したり、つけたり、あわせたりしながら「自分の匂い」をコントロールしていく。そうしたことがこれからもっと大事になるような気がする。
かつて、いつもいい匂いをさせている英国人の元同僚に、その匂いをほめたことがある。彼はありがとうといい、「ふだんからストレスばかりでときどき自分が自分じゃなくなる。そんな時(自分を)取り戻すのがこれだ」といってポケットからアトマイザーを出してみせた。エルメスだったかクリードだったか香水の名前は忘れたが、なるほど匂いにはそういう効果もあるのだ。
自分を取り戻す匂い
というやつにぼくはまだ出会っていない。
犬の肉球がいまはそれに代わる程度だ。
ちびきちの肉球
それは、まるでポップコーンのやうなにほひなり
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