中国や韓国がことあるごとに「しなさい」という歴史認識。
それもそうだなと思い、素直に従うことにした。彼らの言う歴史認識をする対象期間は意外と短い。だいたい1900年ごろから1945年くらいまでだ。日露戦争前から第二次世界大戦が終わるまでの期間。彼らの歴史教育はこのあたりをたっぷり時間をかけて教えている。中国は4000年、韓国は5000年も歴史があるなどと吹聴しているには、学習範囲が狭すぎる気がしちゃうけど。
ともかく彼らの言い分は、日本はあの時代「アジアの諸国に多大な迷惑をかけた」ということなので、どこのアジアにどんな迷惑をかけたのか。ついでに当時の写真を検証しながら、さっそく認識を始めたい。
1. 中国
中国の各地では戦闘が終わり治安が回復すると、どこからか子どもたちが日本兵に群がりお菓子をねだる。それは進駐軍に「ギブ・ミー・チョコレート」と言っていた終戦直後の日本の光景に似ている。兵隊さんはまるで自分の子供にあげているように朗らかだ。子どもたちの笑顔が微笑ましい。
【(中国 応山城外にて)アサヒグラフ1938年12月8日号】
2. 中国漢口
日本軍の強さに恐れ、戦う前に逃げる中国兵は「敵に与えてなるものか」と町や村から食料を奪い、家を燃やしながら逃げていった(清野作戦)。行きがけの駄賃に婦女を凌辱し、井戸には毒を投げ込むありさまだった。日本兵は困っている民衆に食料を配給し、井戸を消毒して水を飲めるようにし、中国兵を追いかけた。
【(漢口にて戦禍にあった民衆に食事配給をする日本兵)アサヒグラフ1938年23月号】
3. 中国南京
日本軍の攻撃にて南京が陥落したのが1937年12月13日のこと。中国や日本の教科書はそれから南京大虐殺が始まったと書いている。当時20万人しかいなかった場所で、30万人が殺されたと。それが本当ならこの写真はなんだろう? 南京の野戦病院では傷ついた中国兵の治療をする日本軍医の姿が、町中では民衆に食料を配る日本兵の姿があった。殺すどころか、助けている。
4. シンガポール
英国の植民地シンガポールを陥落させたのが1942年2月。日本軍は治安を回復させ、名前も英国人のつけたシンガポールから昭南市に変えた。そしてこれまで植民地政策でほとんど奴隷扱いされていた民衆に、わずか半年足らずのあいだに学校をも作った。それも義務教育だけじゃなく、医科大学まで。戦争中の間にもかかわらず、手金でこれだけのことをしたのだった。なんのために? 彼らが独立してもやっていけるようにである。
【昭南市の小学校では運動会が 毎日新聞社発行大東亜戦争画報1943年7月8日】
5. フィリピン
米国が統治していたフィリピンを攻撃し、1942年5月ついに日本軍は米軍を駆逐する。翌年1943年10月14日、第一次国民投票でラウレル大統領が初代フィリピン大統領に選出、300年もスペイン、米国の植民地とされていたフィリピンはついに念願の独立を果たした。日本軍は解放軍の役目を終え、このとき軍政を解いた。翌年、米軍が空襲と艦砲射撃とともに戻ってきてフィリピン民間人を180万人、日本兵を36万人壊滅させ、フィリピンから独立を取り上げた。
【(フィリピン独立式典会場)アサヒグラフ1943年11月3日号】
【(日章旗を降って独立を祝うマニラ婦人たち)アサヒグラフ1943年11月3日号】
6. インドネシア
300年も植民地支配していたオランダ軍をあっという間に蹴散らす日本軍にインドネシア人は拍手喝采。オランダからインドネシアを人々に取り戻した日本軍はさっそく学校などインフラを整え、インドネシア軍を創設して訓練した。やがて自分たちが去り、オランダ兵が戻ってきたときは、自分たちで戦って独立を果たせと。史実はそのとおりになった。終戦後もインドネシア独立のために日本人2000人が残り(ぼくの祖父の戦友もそのひとり)、共にオランダと戦い、独立した。写真はこどもの日にカブトをかぶり、鯉のぼりを上げる地元の子供達のくったくのない笑顔である。
【ジャワ、日本女性に日本の歌をならうバンドンの娘たち アサヒグラフ1943年9月1日】
7. パプア・ニューギニア
1942年1月、オーストラリアが委任統治していたニューギニアの一部を日本軍が占領。地域を守っていたオーストラリア兵を退治し、ついでにマラリアなど疫病をも退治した。それもわずか2ヶ月で。まだあちこちで戦闘もあったが、かといって日本の軍医は地元民に予防接種することを怠らなず、怪我も病気も診ていた。写真は軍医に診てもらおうと大勢で並ぶ地元原住民。戦時であり戦場だから医薬品は貴重だったが、日本軍は人道を優先したのだろう。
8. ビルマ
60年にわたり英国に植民統治されていたビルマ(現ミャンマー)を攻撃し、1942年4月英軍を倒した日本軍。秩序を取り戻すと翌年1943年8月1日にビルマは最初の独立を果たし、日本と日麺条約を結んだ。翌年戻ってきた英国によって独立の史実はなかったこととされ、ビルマ人も敗色濃くなった日本を見捨てた。そのあと英国にクーデターを仕掛けられ、アウンサンスーチー女史の父であるアウンサンが殺されながらのビルマの独立は少々複雑である。
【内閣就任式とその式場 大東亜戦争画報 毎日新聞社1943年9月8日】
【日麺条約調印式(以下同)】
9. インド
日本の手を借りて英国から独立しようとする自由インド仮政府。樹立は第二次大戦中の1943年10月21日。チャンドラ・ボーズ首班は3日後、米国と英国に対し宣戦布告。残りの1年数ヶ月を日本軍とともに戦い、そして敗れていった。
【自由インド仮政府成立祝賀式 アサヒグラフ1943年11月17日】
ビルマから国境を超え祖国インドへはいった日本・自由インド連合軍。インド兵は英軍と一緒に日本軍と戦わされるいっぽうで、英国から独立しようと日本軍とともに戦ったインド国民軍もいたのだ。下の写真は、日本兵とインド兵がともに戦い、いくつかの戦果を上げてバンザイをしているところ。インドの国旗が日章旗と並んでいる。
【大東亜戦争画報 1944年5月8日】
日本将校がインド兵のタバコに火をつけている和やかなワンショット。差別意識の強い英軍将校はこんなふうにインド兵のタバコに火をつけるようなことはなかった。
【同 1944年6月8日号】
とまあ、ざっと歴史認識してみた。
ごく一部をみただけでも、「アジアに多大な迷惑をかけた」というより、どちらかといえば感謝されるようなことをしていたようにみえる。迷惑をかけられたのは、むしろアジアを植民地統治して資源と利益をむさぼっていた宗主国である英国、米国、オランダ、華僑らである。せっかくうまいこといっていたのに、ちょこざいな日本人め!と
だからその恨みを、たっぷりぶつけてきた。無差別空襲で日本の都市を焼きつくし、原子核爆弾を2個も落とした。それから東京裁判。ろくな弁護も取り入れない戦勝国による一方的なリンチ裁判である。そのようにして作られた史観、つまり自分たちにとって望ましくない史実を削除・隠蔽するコードを作り、戦後の日本人を都合よく教育していった。それはいまも怨念のように生きている。ここにあるようなアサヒグラフや毎日新聞の写真はいっさい伏せられ、いまも新聞各社で自主規制して伏せている。
だが日本人は、だからと言って彼らを逆恨みすることもなく、戦後はどの国とも仲良くやっている。そんなふうにお互いを許し、受け入れてうまくやっていけばいいんだと。一方的にどちらかが反省したところで、史実は変わらない。互いの恨みは水に流し、未来を向いて共に発展すればいいではないか。
だから中国や韓国は、あまり日本人に歴史認識させないほうがいいと思う。でないと、こんなふうにバレないと思って隠してきた事実がどんどん明るみになっちゃうし、そのことで日本人もさすがに堪忍袋の緒が切れるかもしれない。切れちゃうと都合がわるいのはどちらか?
悪いけど日本人は誠実さを裏切るようなことをされると、とても怖い民族です。ばらばらでも強いけど、束になるともっと強くなるからね。
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