太平洋戦争は、日本空母艦隊によるハワイ真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊への奇襲攻撃から始まったとされる。
はたして史実はマレー半島にあるコタバルでの戦闘のほうが先である。ハワイ攻撃に先行すること1時間前、5,300人もの日本将兵はサバク海岸に上陸し、そこを守備するイギリス軍5,600人との間で激しい戦闘が始まっていたのだ。
それにしてもなんというスケールだろう。開戦劈頭、日本はとてつもない大艦隊を遠路はるばる東はハワイへ、南西はマレーへと送りこみ、それぞれアメリカ軍とイギリス軍に同時に戦闘を挑んだのだ。しかもどちらの戦闘にも勝利している。奇襲とはいえ、両面同時攻撃をこの規模感で行った国は後にも先にも日本だけである。
サバク海岸へ上陸する日本軍将兵に向かって、英印(イギリス・インド)軍はコンクリート製のトーチカから猛烈な銃火を浴びせる。だが日本兵は怯まない。にじみ寄っては手榴弾を銃眼へ投げ込み、ひとつひとつトーチカを落としていった。それから2日後にはコタバル市を占領し、イギリス軍飛行場を制圧。まもなく隼(はやぶさ)戦闘機の翼がそこに並んだ。
休みなく日本軍はマレー半島を南進。
タイ国内から進軍してきた広島第5師団の戦車隊(ぼくのおじいちゃんはこの作戦に従事)と同時作戦を敢行した。当時タイは日本と同盟関係(平和進駐協定)にあり、日本軍を支援している。それぞれ英印軍を蹴散らしながら一路、イギリス軍のアジア支配の総本山があるシンガポールへ向かった。難攻不落とよばれたシンガポール要塞は、コタバル上陸からわずか2ヶ月で陥落。この間、日本側死傷者約1万を失うも、英印側は死傷者は倍の約2万を失い、10万もの捕虜を出した。こうして200年以上この地を支配していたイギリス軍は日本軍に無条件降伏した。
▲ マレー半島のあちこちで日本軍は歓迎された。写真は日本戦車部隊の進軍を日本の旗を振って迎えるマレー市民
マレーシアの国定歴史教科書では、マレーシア建国の歴史をなんとこの日本軍のコタバル上陸から始めている。マレーシアの建国はぼくの生まれ年と同じ1963年だが、そこに至るプロセスとして、当時の英領マラヤ(シンガポールも含む)から日本がイギリスの支配から解放したことをきっかけとしているのだ。このように教わったマレーシアの人たちは、日本が開戦にふみきりマレー上陸作戦でイギリス軍に勝たなければ、我が国はいまも独立していない可能性があったと認識している。そのようなコンセンサスもあってマハティール首相のルックイースト(日本を見習え)政策が国民から支持され、いまに至るも親日である。
マレーシア国定歴史教科書(中学3年生)
▲ 明治天皇を紹介し、近代日本を取り巻く国際社会を説明
▲ 日本軍を解放軍として教え、マレー半島の進撃ルートを説明
▲ ボルネオ島での日本軍の進軍ルートと、空と陸からイギリス軍を攻め落とすようす
▲ 「マレーの虎」として山下中将を紹介し、イギリス軍の降伏ぶりを説明
マレーシア人が日本人でもよく知らない大東亜戦争に詳しい理由は、以上のような歴史教育にある。それは自分たちにとって運命の分かれ道でもあったのだ。いっぽう当の日本は、「正しい歴史認識を」と2カ国にゴリ押しされるまま、まるでこれらの国が作文しているかのような歴史教科書を採用して子どもたちに教えている。
それが高じて、修学旅行先の中国での課外授業で「自分たちは死んだほうがいい」とまで自虐する生徒が出る始末。あんな空気の悪いところへ修学旅行させるより、マレーシアはいかがだろう? LCCのおかげで費用も安く済むことだし、ASEAN諸国はこれからなにかと日本と関わり合いが多い。ティーン時代の交流はこれからの人生の財産になるはずだ。滞在中、現地の中学生といっしょに歴史を習ってみる、というのもいいかもしれない。
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