ここしばらく「ハリマオ」に首ったけ。
知るひとぞ知るハリマオ。二丁拳銃、頭にターバン、サングラス。1960年に放送された『快傑ハリマオ』の強烈なルックスは、いちど見たら忘れられない。「快傑」という造語も気になるところだ。リアル世代でないひとも、ファンになったかもしれない。例えばぼくのように。だがぼくが惹かれるのはテレビや漫画のハリマオではなく、本物のハリマオだ。世界を変えた男だと思っている。
ハリマオは実在した。
本名は谷豊(たにゆたか)という。1911年福岡生まれで、2歳のとき英領マラヤ(現在のマレーシア)にあるクアラ・トレンガルへ移住した。父親はそこに理髪店を開業した。
谷の運命を変えたのは1932年、マレー中の日本人を襲撃していた支那人暴徒に妹、静子が惨殺されたことにある。難をのがれた実弟が見たものは、支那人暴徒の手にぶら下がる生首と、血まみれで床に転がる首のない静子の亡骸だった。英人官憲は犯人は逮捕するも無罪放免、日本人の不信を買った。谷はこのとき帰国していたが、復仇を誓い、マレーに舞い戻る。英人官憲に、なぜ犯人を逃がしたのだと詰め寄り、不審を買い逆に投獄される。出所後は姿をくらまし、盗賊になった。そして裕福な中国人やイギリス人ばかりを次々に狙っていった。
もとより親分肌で、持ち物すべてを人に与えて惜しまぬほどの気前よさ。そんな谷の周りには無頼のマレー人たちが集まってきた。モノは盗んでも、決して人を殺めない。盗んだものは貧しい人に分け与えるなど、まさに義賊であった。支配者であるイギリス人や手下の華僑支那人は、マレー人にとって憎い敵である。人々は、自分に代わって成敗してみせる一人の日本人を慕い、支持し、いつしか「ハリマオ(マレー語で虎の意)」と呼ぶようになった。ハリマオは変装の名人で神出鬼没。窃盗団の首領として1000人とも3000人ともいわれる部下をまとめていた。団員の中にはハリマオが日本人だということを知らないものもいた。それだけ溶け込んでいたのだろう。活動範囲はタイとの国境付近やコタバル市。ハリマオはいまに至るもこの地域の人達の間で伝説的な英雄として語り継がれている。
日本帝国陸軍の藤原機関はスパイやゲリラ活動を行う特務機関である。「F機関」とも呼ばれ、インドやビルマ、ジャワ、マレーなどで独立運動を企てるなど、背後からイギリスを弱体化しようとしていた。そんな彼らが日本人であり現地に影響力を持つハリマオを利用しないはずがない。さっそく協力依頼を打診。ハリマオは初め反目していたが、思うところあって自ら協力した。供与された資金を使い、たくさんの部下を使い、コタバルで、タイ国境付近で、イギリス軍背後に潜入し、撹乱工作をしかけていった。
日本軍のコタバル上陸成功も、ジットラ要塞攻略も、ハリマオによる諜報活動が功を奏した。ジットラ要塞は建設時点から現場に部下を潜らせ、手抜き工事をし、工事を遅らせた。トーチカの正確な配置図を日本側に伝えていた。こうして3ヶ月は足止めできるといわれた要塞は、たった2日で落ちた。ハリマオはまたイギリス側について日本軍と対峙していたマレー義勇軍青年1800人に対し、こう演説した。
「俺はハリマオだ。日本軍は、英軍は敵とするがマレー人やインド人は敵としない。諸君は一体誰のために戦っている?英軍はわれわれマレー人の独立の敵だが、日本軍はマレー人の味方として英軍と戦って勝利の進軍を続けている。銃を捨てて故郷に帰れ」
マレー人たちは歓声を上げ、銃を捨てた。
だがこのとき谷はマラリアに感染し、40度近い高熱の中にあった。北マレーのイポーからジョホールバルまではタンカに担がれつつ、イギリス軍の通信線を切断したり、ゴム林から敵を撹乱するよう部下に指示を出し続けた。
ジョホール・バルでようやく病院に収容された谷はここでF機関の長、藤原参謀と面会している。藤原は谷の功績をたたえ、日本の軍政幹部の官史にすると約束。さっそく谷は母親に手紙でこのことを知らせている。盗賊の身を親に恥じていたのかもしれない。晴れて日本の官史になれることがうれしかったのだ。だが治療の甲斐なく、谷のマラリアはついに回復せず1942年3月、シンガポールの病院で静かに息を引き取った。30歳の若さであった。
▲ ハリマオこと谷豊が靖国に祀られた際の当時の新聞記事
コタバル上陸からたった2ヶ月でイギリス軍をマレー半島から駆逐した日本軍。しかしイギリス軍は「マタドール作戦」を準備し、やってくる日本軍を返り討ちにしようとしていた。ハリマオはこの情報をも事前につかみ、日本側に迂回するよう知らせている。ハリマオによる撹乱工作が奏功していなければ、あるいは日本の進軍は水際で撃退され、英国にじゅうぶんな反撃のチャンスを与えてしまったかもしれない。シンガポールも堕とせなかっただろう。
日本軍のマレー攻略が失敗に終わっていれば、以後の歴史は違うものになっていたはずだ。マラッカ海峡がイギリスの支配のままでは、日本はインドネシアやビルマへ兵が進められず、それまで数百年続いている欧米のアジアの植民地支配は変わらなかった。さらに50年続いたかもしれないし、もっと続いたかもしれない。のちのフランス大統領、シャルル・ド・ゴールは「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と言った。自分たちと同じ平たい顔をし、背も小さい日本人。そんな彼らが目の前で白人たちをコテンパにした。どう逆立したってかなわなかった相手をだ。「日本人だってできるんだ。おれたちだって!」という独立気運が高まった。日本敗戦後、旧宗主国は再びこの地に戻ってきたが、もはやアジアの人たちは今までのように従順ではなかった。
▲ 1942年2月15日、シンガポールは日本軍の手に落ち英軍は降伏した
歴史はあるべき姿を目指さない。
偶発と必然をくりかえし、変わったり変わらなかったりするだけだ。
1996年、マレーシアで「谷豊=ハリマオ」を特集した番組が放送された。番組の最後にはこんなナレーションでしめくくられていた。
「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」
武器で人の心は捉えられない。教訓である。
歴史を変えていたのかもしれない谷豊。そんな彼をハリマオに変えたきっかけは、幼い妹への復讐の念であった。だがそれだけでは、マレーの人たちは彼についていこうとは思わなかったはずだ。もとよりマレー人への強い慈愛を持ち合わせていたからこそ、大義を果たせたのだと思う。日本陸軍はそんなハリマオを利用したかもしれないが、ハリマオこそ日本陸軍を利用し、マレーの人たちを解放しようとしたのではないか。とぼくは思う。
ハリマオこと谷豊の御霊は靖国神社に祀られている。
遺骨はいまもマレーの地に眠ったままだ。
【参考文献:マレーの虎ハリマオ伝説 (文春文庫) 中野 不二男、ハリマオ―マレーの虎、六十年後の真実 山本 節】
■ 『マライの虎』【古賀聖人監督 1943年】
ハリマオに関して、書籍のみならずDVDも入手。ハリマオこと谷豊が病死した翌年には史実をもとに映画化されました。1943年、戦意高揚映画として封切りされたもの。いまみればさすがに地味だけど、現地ロケである当時のマレーの日本人街の様子は一見の価値ありです。日本人男優の顔がみな濃くマレー帽をかぶっていたりするから、現地マレー人との区別がつかなくて困りました。戦後のテレビ映画『快傑ハリマオ』のルーツになったといわれる一品。貴重です。
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