昨夏の一人旅。
ウクライナのキエフへまずは飛び、そこからどこの都市に行こうかキエフのホテルで思案した。西のリヴィウには絶対に行くとしても、最期まで迷ったのがあとひとつ。黒海の港町オデッサとクリミア半島のヤルタ。日程の都合で両方には行けない。結局、アクセスの良いオデッサを選んだのだけど、ヤルタへの未練はいまもある。
ヤルタといえばヤルタ会談。
第二次世界大戦末期の1945年2月、連合国の首脳が集まって戦後の世界を決めようとした。敗色濃いとはいえ、日本もドイツも前線ではまだ死にものぐるいで戦い、本土では無差別爆撃に遭っていたころである。ソ連の対日参戦が決まり、ソ連はドイツが降伏してから90日後に日本を攻めることが決まった。会談の参加5ヶ国は戦後、そのまま国際連合の常任理事国になった。
そんなヤルタがあるクリミア半島は、歴史の宝庫である。たとえばクリミア戦争。学校で習ったのは「19世紀ごろ、ロシアの南下政策が引き起こした領土戦争で、英・仏・オスマントルコ連合国と戦い、途中イヤになって勝負がつかないままやめてしまったということと、ナイチンゲールが従軍看護婦として活躍したということくらい。戦場はバルカン半島やカムチャッカ半島など広い。でも本来、授業で生徒に教えるべきは、クリミア戦争は1853年、ペリー来航も同じ年であったということ。当時の日本は列強に飲み込まれないよう上手く立ち回らねばならなかった。組むべき相手を間違えると滅ぼされるからだ。そこで新興国アメリカ。当時は列強ではなかったが、最初に組む相手としてはちょうどよかった。それで翌年、日米和親条約という同盟をむすぶ。
言われるような「黒船で脅されて」とは違う。当時の列強はイギリス、ロシア、フランスの三国。その3国がクリミア戦争のまっ最中。日米の動きにちょっかいをだす余裕がなかったことが幸いした。とにかくクリミア戦争はユーラシア大陸の反対側の日本にも影響していたのだ。
▲ ウクライナ全土の地図。赤線は昨夏訪れたときの行路。クリミア半島にも行きたかったが。
クリミア半島は1950年代にロシアからウクライナに委譲されたが、当時は同じソ連ということで、セバストポリ港はソ連の黒海艦隊の母港のままである。やがてソ連が崩壊し、ウクライナは独立した。ソ連の黒海艦隊はロシア艦隊に表札を変えたが、母港はもはや同じ連邦共和国ではなくなったウクライナ領土。戦略上ぜったいに手放せないと年100億円を払って場所を借り、艦隊を停泊させている。なんだか沖縄の米軍基地を思わせるものがあるが、こっちは土地を貸してる方が金を払う。敗戦国の悲しい定めがある。
13世紀から「タタールのくびき」と呼ばれたクリミア半島。そこを占拠するやたら強いタタール人を追い落とし、ようやくロシア領土にしたのはピョートル大帝になった18世紀のこと。そんなピョートル大帝を自分になぞらえるプーチン大統領にとって、そこはいわば聖地。事実、先日のウクライナ政変においてはただちにクリミアに兵を出し、国際社会から不平を買おうと買うまいと力でおさえるのがロシアである。
イヤな予感がする。
過去にないくらい良好な日露関係。安倍・プーチン両首脳。そのため今年こそ念願の北方領土問題の解決とロシアとの平和条約という期待が高まる。これが気がかりで、欧米が進めるロシア制裁についてはビミョーな立場の日本。だがクリミア半島死守の対応をみれば、ロシアはあいかわらずロシアなのだと思う。そんなロシアがあっさり北方領土で譲歩するんだろうかと。
クリミア半島を軍事占拠するロシア軍と歓迎するロシア系住民。1945年、北方領土をくれてやるからとルーズベルトからスターリンに対日戦争参加の要請がおこなわれたのもクリミア半島であった。
これは歴史の皮肉か、それとも暗示か?
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