昔のTV番組で、「よい子、悪い子、ふつうの子」というのがあった。
アレを見ていたほとんどの視聴者は自分を 「ふつうの子」に置いて、他のグループと比べては安心したり、不安になったりしたもんだ。
日本全体はまだ中流意識のニューマ(空気)に包まれていて、「これについてどう思いますか?」 とか、「あなたはどんな人ですか?」などと訊かれても、 「フツーだと思いますけど・・・」 と答えるのが正しい時代。 世代を通じて日本人の約80%がこの「ふつう」であり、自分よりも「悪いヒト」や「良いヒト」をいかがわしく思い、うらやましく思ったのだろう。
やがてバブルがはじけ、これまでの中流意識はかならずしも「どまんなか」でなくなる。
勝ち組・負け組 といった二項対立の世界。 そのただ中にあって「フツーの人たち」の意識は揺れた。 巻き込まれたくはないと思いながらも、じぶんはどっちだ? と揺れ、あの人はどっちだ?と揺れた。 自分で自分の立ち位置に迷ってしまうのは過去も現在も変わらないのだけど、いまの時代こそは過去のどんな時代よりも 「自分の立ち位置」に無関心ではいられなくなったように思う。 高度情報社会は、情報過多な耳ダンボ社会でもある。 本来自分にとってはどうでもいい他人の年収やライフスタイルを気にしてうかがい、メディアは競うようにこれを記事で煽る。
そんな時代が日本人をして 「ちょいワルおやじ」というコトバに反応させた。
とはいえ、自分のことを本気で 「オレってちょいワルじゃん」 と自覚しているオヤジは少ないと思う。 せいぜい、シルバーリングを指にはめ胸のボタンを三つ開けて、「ねえねえ、オレってちょいワル?」 などと自嘲してみせるに留まる。 ようするに 「なんちゃって」なわけだ。 日本人男性20代〜60代の広い世代の、かつては「ふつうの子」であった80%のうち、「ちょいワル」 に成長していったのは10〜15%くらい。 「ちょいワルおやじ」はスタイルがいいだけでなく、同時に可処分所得も多くなければならないからだ。 17万円の靴に40万円のスーツ、若い女性をつれて800万円の外車をレストランに横付けし、ひとり5万円のディナーを惜しみなく注文し、20万円のスイートルームに消えていく。 そんなオヤジはやはり少数派だし、少数派でいてもらわなければ、人類の生態系がまずもたない。
残りの70%弱、つまりほとんどのオヤジは、いつの時代もつつしまやかに暮らしているのだと思う。 給料も風采もあがらない代わりに、セクハラや不倫とも無縁で、ついでに言えばバブル時代ですら派手さとは無縁だった。 養育費と家のローンで月の小遣いも据え置きの6万円。 だのに、部下たちと居酒屋に出かければ、つい、みんなのぶんも払ってしまい、あとで猛烈に後悔する。 食うには困らないけれど、他人を食わすにはちょっと困るのだ。
日本経済はまさにこうしたナナワリ弱オヤジ(70%弱おやじ)に支えられていた。 オヤジはまた、女性の開いた胸元やスカートからのぞく膝に視線をからめ取られることはあっても、「あれはちょっと・・・」 と行き過ぎる肌の露出に眉をしかめてみせるし、女性と二人で食事をすることはあっても、相談ごとに相づちをうつだけの、いわゆる 「うなずきおじさん」 を演じるまでだ。
まちがっても、予約した部屋のキーをカウンターに置いたりはしない。
格差社会は、たしかに日本の 「フツーの人たち」 を内部分裂させたのだろう。 「ちょいワルおやじ」というコトバを産んだ男性雑誌、LEONの発行部数はしかし7万部。 週刊現代や週刊ポスト、それぞれの10分の一ほどしかない。
ナナワリ弱オヤジは、「ちょいワルおやじ」になれなかったのではなく、ならなかったのだと思う。 ワルいことやスタイルをマネする勇気がなかったのではなく、自身の持つ良心なり美意識がそれを阻んだのだ。
そんなナナワリ弱オヤジを、ぼくは 「ちょいナナおやじ」 と呼んでいる。 カゲロウのような存在を自慢し、あたかも産業廃棄物のように自らを笑い飛ばすが、彼らの存在こそが日本の良識であると信じてやまない。
ていうかぼくも「ちょいナナ」、どちらかというとやや下の方ね。
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