数年前、香港で会社を経営していた頃のこと。
スタッフたちなかなか思うように働いてくれない理由を、給料のせいだろうか? 会社が小さいからだろか? などと思いあぐね、その理由を別の会社の社長に訊いてみたことがある。
そのときの彼の回答はとてもシンプルなものだった。
「いい仕事をしてほしかったら、いい仕事を与えることだ」
まさに「目から鱗」だった。
金銭的なインセンティブは、嫌いな仕事を無理矢理させたり、単調な仕事を速くさせたりするには効果的かもしれないけど、そうでない仕事、例えば創造性が必要だったり、新規のプロジェクトを立ち上げるときには、あまり役に立たないものだ。
そんなことはわかっていたのだ。
だいいち、ぼく自身がそうじゃないか、と。
お金は結局のところ、ムチなのだと思う。
馬車馬に対してそうであるように、その人を”働かせる”ことはできても、その人に”働きたい”と思わせることは出来ない。
人は本来、「いい仕事をしたい」と思っている。
それができないのは、本人の問題もあるかもしれないけど、ほとんどは働く環境にあると思う。 そもそも目的意識に値段がつけられることを、ぼくたちは本当に望んでいるのか?
親切心で席を譲ったおばあさんから千円差し出されたら、あなたはそれを受け取るだろうか? ずっと想い焦がれていた相手とセックスしたあとで、その人からお金を渡されたらうれしいだろうか?
お金のためになにか行動を起こすとき、おそらくその人は「行動」そのものを愛してはいないのではないか?
仕事もおそらくそうだ。
「生活のためにする仕事」というのはどこか虚しい。
できれば「仕事をするための生活」でありたい。
だから、いい仕事が与えられる組織こそが、伸びる会社の必須条件なのだと、ぼくは思う。 報酬やポストはあくまでも結果であって、目指すべき条件ではないはずだ。
ぼくがうんざりするのは、出世すればするほど社内の政治的要素に腐心しなくてはならない日本のサラリーマン根性だ。 上司を喜ばせようとする仕事。 他人に自慢したいからする仕事。 広い家に住みたいからする仕事・・・
くそくらえだ
そんなことだから、不況になるととたんに「貧すれば鈍する」ことになっちゃうのだ。 そんな、他人任せな仕事のモチベーションに、どれほどの価値があるのか? 世界でたったひとりの自分、たったひとつの人生、賭ける命はそんなちっぽけなものじゃなかったはずだ。
日本人は冒険をしなくなったといわれる。
そりゃそうだろう、と思う。
報酬はリスクを冒そうとする思いをくじくからだ。
会社の序列はこのことを冗長させる。
だから、いつからかぼくは序列から距離を置こうと決めたのだ。
ぼくはただ、やるべき仕事をしたいだけだ。
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