「うなじに色気を感じるようになったら一人前の男だ」
まだ思春期も始まっていないぼくに、そんなことを教えてくれた人がいる。 ほかでもない、オトンだ。
オトンの意図は測りかねるが、当時のぼくは「うなじ」がなんなのかすら、よくわからなかった。 首のうしろ部分であること知ったのは、それからしばらくしてからのこと。
その「うなじ」にようやく色気を感じられるようになったのは、それからずっとあとのことだ。
こちらに色気を感じ始めるようになると、不思議なことに、「網タイツ」までが色っぽく思えるようになった。 以前のぼくはそうではなかった。 いったいなんのために ”網” でなければならないのか、さっぱり理解できなかったのだ。
また、ぼくはスカート姿の女性が好きである。
古今東西、男子は女子のスカート姿に異性を感じるものだけど、反してスカートをはく世界人口は年々減っているような気がする。 残念である。 ドイツ人なんてまず履かないし、中国人もそうだ。 他の欧米やアジア諸国もどちらかといえば、履かない。 そんな殺伐とした世界のただ中にあって、日本こそはスカートをはいている女性が多い。 おそらく世界で最も多いのではないかと、個人的に思う。 まさにサンクチュアリではないか、と。
さて、うなじに網タイツに、スカート。
これらに共通する、オトナの男たちが惹かれるものは何だろうか? 人生の修羅場をいくつも越え、そぞろ切なく、かいもなし。 といったような経験を通じて、初めてその理由を男たちは発見するのだ。 それはきっと、オトンの言う通り「一人前の男」でなくして不可能な境地なのだろう。 このテーマ、思いのほか深いのだ。
男たちが惹かれるもの
それは「見えたり、見えなかったり」するモノだ。
ふだんは隠れているものが、見えそうで見えなかったり、見えそうにないのに見えたり、すれば、男たちは異様に興奮する。 ある種の探究心が満たされたり、焦燥感が得られたりと、もはや幸福ですらある。
だがここで注意したいのは、「見えなさそうでやっぱり見えない」ものには、ぜんぜん興味がないのだ。 似て異なるこの差は実に大きい。
たとえばうなじ。
これは普段は髪で隠れていなければならない。 それが風に吹かれたり、手でかきあげるなどして(それ)が時として見えるから、いいのだ。 しかもうなじ部分は、コトが始まるまさにあのときのことを彷彿させる何かがある、ような気がする。
スカート。
男は幼少の頃から、その中身に神秘性を感じているものだ。 それはエロスであるが、同時にふるさとでもある。 かといって、短ければいいというものでもない。 膝たけスカートとホットパンツ、露出度でいえば後者だけど、オトナの男たちは前者を選ぶ。 太ももだって隠れてこそが花、どうどうと見せられるよりは、「見えそうにないのに見えた」時のよろこびのほうが大きいものだ。
このことをして、いわゆるちらリズムは日本人ならではの美学か?と思いきや実はそうでもない。 映画「7年目の浮気」で魅せるマリリンモンローの、風にあおられスカートがめくれ上がるシーン。 ちらリズムは日本特有の文化ではないのだな、と思わせるに十分である。
似て異なるものにタイツがある。 これは「見えなさそうでやっぱり見えない」の部類であって、いわゆる防寒着の一種だろうとぼくは思う。 だって寒冷地では男だって履くのだ。 要するにズボンと同じカテゴリーなのである。
では、なぜ網タイツならいいのか?
それは「見えたり、見えなかったり」するから。
このことに気づいたのは、それほど前ではない。
男はやはり、中年になってから美学が醸成されるのだ。
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