誰かに何かを言われて、カチンとくる。
そういうことが、たまにある。
自尊心が傷つけられた
というひともいる。
傷つけられたと思うとき、ひとは思いがけない言葉をはいたり、行動に出たりする。周囲から「まさかあのひとが?}と言われることもある。
ついカッとなってやった
という供述は、報道などでもよく耳にする。
べつの言葉で「感情的になった」ともいう。感情的になってやることは、よくないことが多い。「感情的になってつい良いことをしてしまった」なんてことは聞かない。そもそも「感情的になる」という意味がぼくにはよくわからない。人間の感情は「喜怒哀楽」あるのに、「怒」ばかりをとらえて感情的というのも違和感がある。
つくづく「自尊心」というのはやっかいだ。
まず、なんとなく正当性を匂わせる響きがある。まるで人間の尊厳のように、侵してはならないサンクチュアリな響きがある。それだから「自尊心を傷つけられた」となれば、相手が悪いんだからカッとなって反撃したってかまわない、自己を正当化するのかもしれない。
だが自尊心は、読んで字の如し「自分に対して尊敬する心」なんかじゃない。自分をよく見せたい。自分の能力はもっと高いはずといった、といういわば「見栄」そのものじゃないかと。自分でもちょっと無理をしている部分であり、コンプレックスが潜む。要するに、あまり他人につついてほしくないデリケートなところである。人に触れられただけで飛び上がるほど痛い「すり傷の部分」のようである。だから過剰反応してしまうのも無理もない。なるほど「見栄」ならわかる。傷つけられやすいし、ずでに傷ついているのだ。むしろ褒めてもらいたいし、いたわってもらいたい部分だ。
つい、カッとなる。
それは弱さである。
エセの自尊心なら、棄てていい。
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