先月だったろうか、TVに懐かしいあの中村雅俊がでていた。
中村雅俊といえば、ぼくらの世代にとって永遠の高校教師である。 熱血教師である。 さすがは熱血、久しぶりに見てもやっぱり泣いている。 何かに感激してるんだろうか?
ぼくは読んでいた本をテーブルに置き、リモコンをつかって音が聞こえるようテレビのボリュームをあげる。
なんと謝罪をしているのだった。
理由は「息子が逮捕された」から。
罪状は覚せい剤、よく聞く話だ。
ところで欧米や他のアジアで、子供の不祥事に親が出てくることは、まずないといっていいだろう。 あったとしても子供の潔白を訴えるためのもので、謝罪ではない。 ましてや息子は31歳、成人式を10年も前に終えているではないか。
「いい大人が何をしているんだ、と怒鳴りつけてやりたい」
中村雅俊は報道陣を前に、嗚咽しながらこんなふうに胸中を明かす。 たいへんだなあ、と思う。 この国では子供はいくつになっても子供のままなのだ。 我が子の過ちは、死ぬまで親の責任としてついてまわるのだ。
ある大学教授は取材を受け、こんなふうにコメントする。
「日本の社会では、たとえ子供がいくつになっても、親がその行動に責任を期待されるからだ」と。
いつまでも親が子の責務を負う。 それは日本の農耕社会の悪しき伝統かもしれないし、あるいは美徳かもしれない。
けれども伝統はときとして、芸能ネタで視聴率や広告費を稼ぐ人たちのものである。 芸能ニュースは他の報道に比べ、費用対効果が高いのだ。 同じネタでなんど放送しようと、視聴者や読者はついてくる。 やがて、これに引きずられるように世論が形成される。 結局のところ彼らの金儲け主義が、中村雅俊や三田佳子らをカメラの前でひざまずかせているだけの話だ。
彼らの親としての涙は本物かもしれない。
とはいえ、しょせんは監督権を離れた子供の罪である。 独立したひとりの人間の仕業である。 大人の分別を鑑みれば、落涙してまで子に代わって世間に謝罪するなど、過保護ショーであるにすぎない。 それはむしろみっともないことじゃないか、とぼくなどは思ってしまう。
「いい大人が何をしているんだ、と怒鳴りつけてやりたい」
それはこっちのセリフである。
気の毒だとは思うけど・・・
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ソファはまえとおんなじ。クッションもまくらもおんなじ。いぬはね、にんげんのようにかこをふりかえったりはしないものさ。
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