メールなどなかった時代、よく絵葉書を買った。
「旅先から自分あてに絵葉書を出すと良い記念になる」という話を聞き、自分もやってみようと思ったからだ。みやげもの屋に並ぶ商品の中でもっとも安いのが絵葉書。貧乏旅行者の身だから、その中でも一番手ごろなやつを2・3選んで買う。だがその絵葉書が自分に届くことはなかった。あて先は結局のところ自分にではなく、友人や両親、その時好きだった人に向けて出した。
絵葉書に文字を落としポストに投げる。
いまならそれは写メである。絵葉書がメールと違うのは書き損じが許されないこと。結局ぼくがしたためたのはイラスト(絵)だった。その隙間に「元気です」とか「おなか壊しました」などと書く。ある日、海外に住む息子からベルリンのブランデンブルグ門の絵葉書が届く。裏にはビールとソーセージの手書きイラスト、隙間に「おなか壊しました」などとある。受け取った親はどういう心境だっただろうかと思えば、いまさらながら申し訳ない。ふだん、手紙なんてろくにださないくせに、旅先からはずいぶん絵葉書を投函したものだった。「おまえくらいだよ、こんなに絵葉書よこすのは」と友人たちも言っていた。いま思えば苦情だったのかもしれない。そうか、と今さらながら思う。旅先でブログを更新するのと同じことを、ぼくは絵葉書でやっていたのだ。
メールどころかLINEの時代。
便利だ便利だと使っていたら、ある日「なりすまし」にのっとられた。それを知らされたのは友人からの電話。そのときぼくは旅行中で、アルジェのホテルで夜明けを迎えていた。気づけばメールの受信ボックスには「これは本当におまえか?」的なメールがどっときていて、それはフェイスブックのメッセージでも同じだった。寝ぼけた頭で事態をようやく理解し、LINEの運営サイトのフォームを通じてアカウントを消去してもらう。中には本気にした友人もいて「怒ってたみたいだったけど大丈夫?」というメールもあった。「iTunesカードをコンビニで買って番号を知らせろ」と、なりすましのぼくは言ったそうなのだ。ひとしきり謝り、だがなぜ自分が謝っているのかよくわからなかった。
なりすまし、許すまじ。
「なりすまし」なら以前からある。たとえばハンコ。誰が押しても同じになる。店には同じハンコが売られてもいる。そんなものが署名の代わりになるわけがない、といつも思う。それが証拠に、ハンコを押した書類を提出しようとすると「本人確認ができるものがありますか?」と日本では聞かれる。だから印鑑証明なんてのが存在する。なんか違う、と思う。
イラ写にアップしたイラストや写真、テキストなどが、他の企業サイトや個人ブログ、果ては食べ物屋のメニューで使われていたことがあった。使えるものがあるなら使えばいいし、それが役に立ったのなら本望である。なのでたいていはほうっておく。するとある日、とあるSNSのプロフィール写真に「なおきん」イラストが使われていたと知らせがあった。ここから友達申請を受けた友人は、なおきんにしてはヘンだと思い、ぼくに確認をしてみたというわけである。へえ、と思う。これもある意味「なりすまし」なのかもしれない。
そのことを周囲に話すと「おまえそれ放ってちゃダメだよ」と言われる。どんな悪用をされるかわからないし、著作権でご飯食べている人たちもいるんだからと。なるほど、そのとおりかもしれない。悪用されたからそれはわかる。だけどブログで公開したものは、もうぼくのものじゃないという気がする。それがイヤなら公開しないだけである。
いまにしてふと、あのときやっぱり自分にも絵葉書を出しておけばよかったかなと思う。それがなんの役に立つかは、また別の話だが。
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