10月にはいってから「新幹線50周年」「東京オリンピック50周年」ということばをあちこちで目にするようになった。50年前の風景が映し出され、あのころの日本は躍動感があり人々は希望にあふれていたようなイメージが伝わってくる。
1964年、昭和39年というのはちょうどぼくが生まれたころである。幼すぎてよく覚えていないが、五輪のペナントが貼られた部屋で母親に抱かれている自分の写真をみたことがある。なつかしいといえば、なつかしい。だけどまだ生まれてもいなかったテレビキャスターの「あのころの日本は良かったですよね」などというコメントには、さすがにどうかと思う。
おそらくは映画『Always 三丁目の夕日』などの影響もあるのだろう。下町の熱いヒューマニズム、高度成長まっただ中の「明日は今日よりも良くなりそう」という希望と期待感。そんなものが入り混じり良くみえるのかもしれない。だけど、昭和30年代はそんな甘いもんじゃない。あのころといまを比べれば今のほうがはるかにマシである。だれがなんと言おうとも。
まず公害がひどかった。各社の工場は海に廃液を流し、メチル水銀を川に流した。工場の煙突から上がるばい煙、クルマの排気ガスに大気は汚染されまくっていた。各国で核実験がおこなわれ、原発事故並みの放射性物質がふりそそいでいた。粉ミルクにはヒ素が含まれ、ジュースやお菓子にはチクロやズルチンなどの添加物がふつうにはいっていた。どぶ川は悪臭を放ち、アズベストが使われた建物が普通で、くみ取り式のトイレがほとんどであった。あわせて不潔が原因で命を落とす人も大勢いた。赤痢の死亡者はいまの1000倍、性病で亡くなる人は毎年2000人はいた。また国民の4割は寄生虫に感染していたし、たいていどの家にもネズミがいた。だからネコが飼われた。新生児の死亡率はいまの20倍も高く、八百屋で売られている野菜にはたっぷり農薬が散布されていた。いまのひとからみれば「これが日本?」と、信じがたいかもしれない。もともと「安全で清潔な日本」というのは神話だったのかも?と思うことだろう。
さいきんでこそ個人情報への留意がかまびすしく、ベネッセ社の漏洩事件を史上最悪などと騒ぐが、少し前までは電話登録者全員の住所と電話番号が記載された「50音電話帳」がもれなく家庭に配られていた。わが家専用の電話番号が得られる権利は、それを公開するという義務とセットだったのだ。もっとも「向こう三軒両どなり」な近所づきあいは互いのプライバシーなんてないもひとしかった。だから安全、という考え方もあるけれど、たいていは自慢とヒガミの応酬、誹謗中傷のネタとなり争いもまた深刻だったのだ。
14インチの質の悪いモノクロテレビが17万円(物価換算で200万円)もし、カラーテレビはその倍はした。庶民が楽しめる数少ない娯楽だった映画館に行けばタバコの煙で画面がくもり、目にしみた。「東映まんがまつり」なのに子どもたちは受動喫煙に耐えねばならなかった。
▲ 昭和40年ごろの自宅の風景でオカンと.テレビはまだモノクロで、こんなふうに足がついていた.右に写り込んでいるのはガスストーブ. 今では考えられないほど危険な暖房器具だった
50年前の日本人が、いまの日本のなにに驚くだろう?と想像してみる。スマホやパソコン、ネットやクルマなどのテクノロジーに?それとも人々の清潔な身なりと空気のキレイさ、川や海の透明度に?ビルや建物の美しさに感激し、どれも清潔で安全が整っていることに失禁しそうになるかもしれない。
でも一番おどろくのは、人々が静かになったことじゃないだろうか? 道行く人があまりしゃべらず、笑っていないことにも。おこないやふるまいを制するルールが多様多重化していて、息がつまるかもしれない。
いいこともあるし、悪いこともある。
それはいつの時代にもある。50年前の人々の目を通じて覚えるおどろきは、いまぼくが持つおどろきに似ている。いまなにに感謝し、きゅうくつに感じているのかをも。
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