ひとはなにかを受信したくて送信しているものだ。
あるいは「やさしさ」もそうだろう。
意外にもひとは、やさしくされたくて、やさしくするのだ。
自分に心地よいことをしてくれる相手を「やさしいひと」と呼び、でなければ「やさしくないひと」と呼ぶ。
みんながどれほど「あのひとはやさしい」といおうとも、同時に自分にとってやさしくなければ、意味がない。 「やさしいひと」とはつまり、自分にやさしいひとのことをいう。 自分のしてほしいことはなにひとつせず子供や小動物ばかりにやさしいひとは、心は美しいのかもしれないが、「やさしくないひと」のひとりにすぎない。
「やさしさ」って、ただのエゴじゃないか。
そう考えてしばらく悩んだ時期がある。
たぶん、ぼくがずっとまだ若いころ。
あのころはほんとうに、掘れば掘るだけ悩みがあった。
「やさしくする」と考えるからエゴになる。
「やさしくいる」と考えれば、いい。
それはとても自然なことのように思う。
たぶん、それは許すことに近い。
相手を許し、自分を許す。
やさしくしてもらわなくても、許す。
やさしくしてあげられなくても、許す。
自我を張らず、意地を張らない。
ムリになにかを変えようとせず、あるままを許す。
どうしようと、しまいと、変わるものは変わるし、
変わらないものは変わらない。
そういうことを相手に許し、自分に許す。
それでいいのだと思う。
つまり「やさしくいる」のは意思である。
心が折れそうになったりささくれだったりしたとき、ぼくはよく、バカボンのパパの名セリフ「これでいいのだ」と声に出して言ってみます。不思議と気分が落ち着きます。やっぱり天才だなあ、バカボン。ていうかパパ。
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