デビューしたてのロックミュージシャン。
彼らが身につけているアクセサリーやメイクのどぎつさが、年期とともにだんだんと減っていき、やがてベーシックかつシンプルな装いになっていく様は、おなじみのとおりである。
過剰なまでに自分を飾りたい理由は、見栄であったり、威嚇であったり、気負いであったりするのだろう。 つまるところ「自信のなさ」の裏返しでもある。 身につけるアクセサリーは、多ければ多いほど不安や不満を抱えるものなのかもしれない。 女性の指にどう見ても多すぎる指輪を見つめながら、その美しさよりもぼくは「この女性を不安にさせている何か」のほうが気になってしまう。
「このブランドはわたしにこそふさわしい」
そういい聞かせながらも、ある種の虚しさにはとうに気付いているはずだ。 幾多の女性が結婚をきっかけに自分を過剰に飾らなくなるのは、他に自分を守るものが見つかったからという理由もあるのだろう。 だからおなじ理由で、夫婦仲が悪くなると再び自分を飾りはじめたりもする。
まだぼくが高校生だった頃、やたらと女子にモテる友人がいて、「女の子が髪をさわるのは頭を撫でてもらいたいからだ」などと豪語していたことを思い出す。 今なお「なるほどなあ」と思う。 別に確かめたわけじゃないけれど。
「ひとのしぐさ」というのは、なかなか興味深い。
口にせずとも心の中の出来事は、外に向けて語りたがるものだ。
カフェやバーにひとりでいると、つい人間ウォッチングをはじめてしまう。 思うのだけど、年齢にかかわらず男女のカップルは面白い。 本に目を落としていても、つい様子をうかがってしまう。 会話の内容はともかく、気になるのはそのしぐさ、とくに手の動き。
人の心理はたとえ顔でごまかせても、手でバレる。
嘘をつくとき、指はたいてい顔のどこかにあるし、手のひらの向きは、心の開閉にそのままつながっている。
どちらかの、あるいは両人の手の動きや置くポジションをみて、「このカップルはもう長くはないな」と感じることもあるし、当人たちは気付かないだけでとっくに恋に落ちている場面に遭遇することもある。
△ 心のできごとは、たとえ顔でごまかしてもしぐさがそれをばらしちゃうのだ
「もう少し相手を思いやればいいのに」と感じることもあるけれど、それは端からだからこそ気づくのだろう。 おそらくぼくが当人ならば、きっと同じような地雷を踏むだろうから。
そうやって多くの他人のやり取りをぼんやり眺めながら、華やかに着飾るあの女性が実は不安を抱え込んでいたり、寛容を装いながらも相手への焦燥感をつのらせている30代半ばの男性に、つくづく人間の弱さを感じずにはいられない。
ぼくが惹き付けられるのはそんな「弱さ」である。
他人の持つ「弱さ」を責めるのはカンタンだ。 事実、世間は人の弱さを叩く。
でも、人の弱いところを見るとそこに愛しさすら覚えることがぼくにはある。 むしろ人の暖かみは、欠点や、足りない部分にこそ感じてしまう。
弱いところにはスポットライトは当たりにくく、また当てても欲しくないだろう。 だけど人間というものは、そんな弱さを隠そうとして余計に不安になったり、不機嫌になったり、まわりに不寛容になっていないだろうか。
「しぐさ」を通じて人間は、そのようにして心がついてしまったウソを浄化する。
それを眺めるぼくもまた、心が浄化される思いがするのだ。
好きな人から「見つめられた」といって自分に気があると喜んじゃダメ! ポイントは口元、同時にそこが緩んでいたらあるいは見込みがあるかもしんない、ってことでガンバッテ!
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