離れるたびに日本について思うのは、
礼儀正しく清潔で、日本語が通じる便利さと引き替えに、
相応の対価を払わされているというリアリティだ。
頭をひとつぶんひっこめて、呼吸を浅くし、気配を少しだけ消す。
そのようにして暮らしていれば、日本はとても過ごしやすい。
周囲の迷惑にならないし、誰の敵にもならなくてすむ。
ありがたい。 もとよりぼくは争いを好まないのだ。
香港に来るたびに感じるのは、その音と匂いと色。
人の話し声や街の騒音、食べ物や人間やダクトから漏れる匂い、
赤や金、オレンジやパープルといった色彩。
これらが五感にドルビーサウンドさながらつきささってくる。
コントラストが鮮明になり、音量がぐんと上がる。
鼻のつまりがとれ、皮膚がむき出しでひりひりする感じ。
△ 香港の不夜城SOHOにたたずむ
生きることはしんどいし楽しい。
悲しいし痛い、激しく、そして愛しい。
ひとはだからこそ生まれてきたのだろう。
日本で2年間過ごすより、
香港に2日間いることでより鮮明になるのは
そんな、生きることのリアリティである。
ひとはもっと怒っていいし、笑っていいし、泣いていい。
もともと、そのように作られているのだ。
誰のためにそれを言い、
誰のためにそれを言わないのか?
ときに遠慮はただの「手抜き」である。
香港で生きていくのは自転車をこぐようでもある。
こぐのをやめれば、倒れるのだ。
倒れても、誰のせいにもできない。
日本で同じことをすれば、
会社のせいにできるし、政府のせいにできる。
それが幸運なら、いったい何が不幸なのだろう?
背筋をぴんと伸ばし、呼吸を深くする。
空気は東京よりも汚れているが、かまわない。
五感を取り戻すには、ある種の「汚れ」も必要なのだ。
おそらく。
来たと思ったらもう帰る日に。でも日本はぼくにとって「帰る」場所なのかどうか、まだよくわからない
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