少し前まで幸福だと思ったことがいったん実現してしまうと、幸福度は下がるのだという。 だからひとはいつも「幸せになりたい」といい続けるのかもしれない。
飽くなき幸福への追求。
幸福のまま長くいられないのは、人類にとっていいことなのか悪いことなのか、考えれば考えるほどぼくはよくわからなくなる。
おそらく幸福は目標を達成したところに宿ってはいないのだろう。 たとえそれが上昇であろうと下降であろうと、ぼくは「変化」の中にこそ幸福はあるんじゃないかと考える。
ポイントは「手ごたえ感」。
手ごたえが感じられるところに、幸福は宿るのだと個人的には思う。
生活がどんどんよくなる体験も、どんどん悪くなる体験もぼくにはあるが、そのどちらも「手ごたえ」が感じられた。 夢中になれた。
また、「着ている服」や「持っているクルマ」によってもたらされる幸福より、「何を着ても似合うカラダ」や「何に乗っても劣らないセンス」の幸福のほうが長く続くと思う。
だって24万円のスーツを着てカッコイイといわれるより、9800円のスーツを着ていてもカッコイイといわれる男のほうが価値があると思うから。 本来なら、そのための努力に差分の20万円余りを使うべきだろう。 自らがブランドになれるように。「手ごたえ」はまさにそこにある。 他人から与えられたブランドには、まずそれがないのだ。
ぼくの考える、贅沢さ。
それは、ピンとキリを自由に行き来できること。
吉野家も行けば、高級和牛のステーキのお店にも行く。 高級リゾート地に行けば、バックパッカー旅行もちゃんとする。 ゼニアのスーツも着れば、ユニクロのアウターも着る・・などなど。
今の日本がありがたいのは、そんな贅沢ができるということだ。 「不況だからそんな・・」とあなたはいうかもしれない。 でも、バブルの時代に店で売られているものはどれも総じて高かったのである。 どんなに質が悪くたって、9800円のスーツなんてなかった。 いま9800円で買えるスーツの質は、当時なら数万円したのだ。 加えて、吉野家が290円で牛丼を出すことはなかったし、100円マックなんてものもなかった。
結局のところあの時代は、今より所得は高かったかもしれないが、今よりモノは買えなかったのである。
労せず得たモノに、やはり幸福は感じにくい。
だから「手ごたえという名の苦労」にお金をかけたい。
それが幸福を長持ちさせる秘訣なんじゃないかと思ったりしている。
めんどくさいことにお金を使うことってありますよね
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