日本がアメリカに敗れてもアメリカにならなかったけれど、ロシアに敗れていれば日本はロシアになっていたのよ。そう話してくれたのは祖母、日露戦争に従軍した父の娘でもある。また、命がけで満州から引き揚げて来た従姉妹をもつ。
ロシアがいかに恐ろしいかを知るきっかけは、1900年の「東学党の乱」。外国人排斥を訴える義和団による大暴動。暴動を抑える力は清政府にはない。それで外国の軍隊が暴動を抑え居留民を保護することになった。日本も出兵した。ロシアは自分たちが満州に敷いたばかりの鉄道を剥がされたと怒り、いっせいに満州になだれこむ。ロシア軍その数17万5千人。チチハル、長春、吉林、瀋陽、ゆく先々で住民を虐殺し、勝手に都市を占領してしまった。他国の兵が北京で暴漢から自国民を護っているあいだに、ロシアは満州を事実上占領してしまっていたのだ。ロシアから膨大な賄賂を受け取っていた李鴻章、国を売ったと言われてもしかたない。
東鶏冠山(ひがしけいかんざん)
旅順という地名を知ったのは、高校生のときに観た映画『二百三高地』。さだまさしの歌うテーマ曲『防人の詩』は当時、大ヒットした。山に囲まれた旅順港、そこになぜロシアは軍艦を停泊させていたのか。なぜ周囲の山々にコンクリートで固めたトーチカを建設し、ずらりと砲や機関銃を並べていたのか。なぜそんなところへ日本兵はわざわざ海を渡り、攻めに行かなければなかったのだろうか? 「死んでもロシアになるもんか!」そういいながら日本兵は戦い、かの地で死んでいった。
旅順を案内してくれたガイドのチョウさんは、ぼくと同い年の父親をもつ。そんな若いチョウさんが働く大連国際旅行社の社長は日本人。「他では知らない歴史に基づいた旅順ガイド」が売りものだ。日本人の社長は歴史好きで、資料と自らの足で徹底的に調べあげたのだという。「社長は元気ですか?」ときくと「死にました」とチョウさんはあっさり。「一年前に脳卒中で。53歳でした。お酒が好きで太ってましたから」
大連からクルマで1時間で旅順に着いた。
最初に訪れたのは「東鶏冠山(ひがしけいかんざん)北堡塁」 。高圧電流が流れる鉄線をなんとか超えた日本兵は、その先にあった堀に気づかず落下。そこへ銃眼を据えて待ちかまえたロシア兵の機関銃にめった撃ちにされた。1000人が数十人に減るのにわずか10分しかかからなかったと記録にある。
▲ いまも生々しく残る日本兵をなぎ倒した銃痕
▲ 銃痕と銃痕の間隔がその激しさをものがたる
▲ 「攻撃されても50年は持つ」と清軍が自慢していたトーチカの写真。だが戦闘が始まってみればたった一日で日本軍に落とされた。やがて十年後、こんどはロシア軍が同じ場所をさらに増強し、日本兵は8000人の犠牲を払わされることになった【出典:人民美術出版社】
▲ 日本軍が掘った坑道、ここを伝って堡塁に近づき、ダイナマイトを仕掛けた
▲ ダイナマイト2.3tが爆破した瞬間の写真【出典:人民美術出版社】
▲ 日本沿岸に据え付けていた28サンチ榴弾砲を旅順まで運び、これをつかって堡塁を攻撃。射程は7.8km、砲弾の重さは217kgもあった。その一発は天蓋を破壊し、敵の大将コンドラチェンコは即死した【出典:人民美術出版社】
▲ これがその砲弾。よく運んだものだと思う。
▲ 永久要塞と呼ばれていた堡塁は二階建て構造、数千人が立てこもって戦えるよう、キッチンや寝室なども完備されていた。爆破後、踊り込んできた日本兵とロシア兵がここでとっくみあいをし殺しあった。流れる血と死体で足の踏み場もないほどだったという
▲ 戦争直後の東鶏冠山北堡塁【出典:人民美術出版社】
▲ いまの東鶏冠山北堡塁
▲ 今も同じ場所に残るロシア製150mmカノン砲 山の頂上から日本兵をなぎ倒していった
▲ 当時は禿山だったこの場所を日本軍は攻め上がり、死体の山を作っていった
▲ 砲に触れた瞬間「熱い」と思った もちろんそんなことはないのだけれど
▲ 砲底部分にロシア語と製造年が刻印 1899年とある
▲ 旅順の地図【出典:地図で知る日露戦争(武揚堂)】
二百三高地は花見シーズン真っ盛り
▲ 映画【二百三高地】より
203高地のふもとにはおびただしい数のクルマと観光バスが停まっていた。チョウさんに「中国人たちも203高地は人気なんですか」と聞けば、「みんな花見に来ています」とのこと。ここは戦後日本人が植えた桜の名産地となっていた。
▲ かつては戦場に咲きほこる旅順桜 「桜の樹の下には死体が埋まっている」
▲ みごとに満開 旅順は日本の盛岡と同じ緯度、桜前線も同じだ
▲ 桜の植林を記念して「中日友好モニュメント」が よくみると不気味だけど
▲ 203高地に向かって山を登る中国人カップル。ショッキングピンクのタイツが眩しい
▲ 二百三高地まで掘り進んでいった日本軍の坑道が残る
▲ 弾除けのため、坑道はジグザグに
▲ 203高地をとらなくても旅順港に停泊する艦隊は壊滅していると乃木将軍は攻撃に反対していた。その割に犠牲が多すぎると。 ここの斜面には多くの戦死者が横たわっていた
▲ 何千もの犠牲がここを血に染めた 当時は禿山だった地にいまは木々が生い茂る
▲ 乃木将軍の息子もまた参戦、ここで命を落とした。 写真はその墓石
▲ 乃木将軍は戦後、犠牲者を弔うためここに忠誠塔を建て、爾靈山(にれいさん)と名づけた。戦闘に使った薬莢を拾って日本に持ち帰り、銃弾のかたちに鍛造してここに据え付けた。日露戦争後、多くの日本人が慰霊に参る。第二次大戦後、文化大革命時に先端が壊され、プレートが引き剥がされた。先端はその後復元されたがプレートは引き剥がされたままである。
▲ 銃弾部分にロシア語の落書きがみえ
▲ 根元部分には中国語の落書きがみえる
▲ 203高地とは海抜203mからきている。この高さからだと旅順港が見渡せ、榴弾砲の観測所になりえた
▲ 山頂にある「日本軍28サンチ榴弾砲(レプリカ)」の周辺には中国人花見客が思い思いに過ごす光景 桜を意識してかやたらとピンクの装いがめだっていた
▲ 山頂からの砲撃で旅順ロシア艦隊はことごとく沈められた【出典:人民美術出版社】
▲ 二百三高地陣地そばには案内板があるが
▲ 「旧日本軍国主義の頭である乃木希典は(中略)記念タワーを作り上げ、日本国民を騙している」などと3ヶ国語で説明 歴史修正主義とはこういうことをいうのだろう
▲ 旅順でもっとも高い白玉山頂にたつ「白玉山塔」 日露戦争後の1907年から2年かけて建てられた。材質は花崗岩で山口県から運ばれ、土方2万人の手を要した。
▲ 建設中の「白玉山塔」(1908年ごろ)【出典:人民美術出版社】
▲ 塔の中は螺旋階段がありてっぺんまで登れる
▲ 山頂まで上り、さらに60mの塔まで登ればさすがに息切れが
▲ 旅順港がきれいに見渡せ、停泊する中国艦艇も丸見え「尖閣に来るなよ」と願う
日露戦争後、旅順は大連とともに関東州という日本の租借地となった。同時にここ旅順にも大勢の日本人が移住した。ちなみに旅順は今も昔も大連市の一部であり、さしずめ区にあたる。新市街が新たに作られ、日本人街があちこちに生まれた。
▲ 旅順のかつての日本人住居 いまも住居として利用されている
▲ 旅順駅は1900年、ロシア人によって建てられた。写真は1905年、日本によって建てられたもの。
少なくない犠牲を経て旅順攻防戦に勝利し、その後の奉天大会戦、日本海海戦を有利に戦えた日本は、アメリカの仲介もあってようやくロシアと講和を結べた。負けたら日本はなくなると必死で戦った将兵。だが勝てばどうなるかというのを、当の日本人が一番よく理解していなかったのかもしれない。世界は変わった。日本の勝利のニュースは世界を駆け巡り、それを自分のことのように喜ぶ人々もいれば、悔しがる人々もいた。日本は思いのほか強かった。そのことが太平洋をはさんだアメリカも、東洋の利権をもつイギリスをも緊張させた。36年後の大東亜戦争の萌芽は、実は日露戦争の勝利にあったとは皮肉なことだ。
ロシアの敗北をバネに、革命後のソ連はリベンジに燃えた。そのこともまた、当時の日本人は気づいていなかった。やがて第二次大戦が日本の敗北で終わった1945年、どれほどロシア人が日本にリベンジしたかったかを味わうことになる。
だけどそれはまだ40年も先のことで、辛勝したばかりの日本軍将兵は亡くした戦友を弔い、ようやく帰国できることで頭がいっぱいだった。一人ひとりの将兵は、人の子であり、人の親にすぎない。貧しい農民のひとりでしかなかったのだ。そんな一人ひとりの奮闘によって、日本は壊滅から免れていたのだった。
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