大連の名付け親は日本だった
19世紀末までは「青泥窪」と呼ばれる15戸ほどの集落にすぎなかった彼の地。そこに李鴻章が旅順に北洋艦隊の基地をこしらえたのは日清戦争の直前のこと。戦争後はいちど日本領になったものの、ご存じロシアによる三国干渉で清国に返還された。
それからロシアは清から彼の地を奪い取り「ダールニー」と名づけ、念願の港湾を建設。鉄道駅を隣接させた。ロシア語で「遠い」を意味するダールニーを、ヨーロッパと太平洋をつなぐ拠点として建設するつもりだった。帝政ロシアの威信にかけてでも。いまの中山広場から放射状に広がる大連の街区は、このとき設計されたものだ。設計士はハリコフ技師、工事は山東省から連行した中国人苦力(クーリー)にやらせた。日露戦争で負けさえしなければ、そこと旅順を拠点に朝鮮半島を、さらには日本列島をも手中に治めるはずだった。やりたいほうだいである。だが世界はそれを望まなかったし、結局のところ戦争は日本が勝利した。ロシアは権益を日本に引き渡し、ダールニーは日本の租借地となった。そしてダールニーは日本人によって「大連」に改名した。戦後 中国は一度は「旅大」と改名したものの、現在は元の大連に戻し、ダリアンと呼んでいる。
アジア人でもやれるんだということを見せたかった日本
ロシアに戦勝した翌年、譲り受けた鉄道とその経営をするため「南満州鉄道株式会社(満鉄)」を2億円(現在の価値で約6000億円)で設立。資本の半分は日本政府が現物支給で投資した。鉄道沿線の行政権までもつ巨大なコングロマリット。鉄道会社と湾岸経営会社、地方自治体と総合商社が合体したような会社である。本社は大連。満鉄はその後も学校や病院をつくり、炭鉱や製鉄業、道路、空港、旅行業、ホテル経営など次々に事業を拡大していった。匪賊や馬賊が横行する満州の地から、従業員や居住民を守るため自衛の軍を持った。それが後の関東軍である。行政権に軍事力。もはや会社というより、国そのものであった。
大連は満州国の一部だったと思いがちだけど、大連は関東州にふくまれ、関東州は日本の租借地(一定期間、自国領土)だった。イギリスにおける香港や、ポルトガルにおけるマカオのような位置づけだ。日本政府は満鉄を通じ、膨大な国家予算をそこに投じた。三井や三菱などの財閥も満鉄に投資した。肝いりの、相当な額である。こうした資金をつかって満鉄は上下水道を整備し、電気を通し、電柱を地中に埋めるなど、日本本土にもないようなインフラを整備しながら近代都市を鉄道沿線上に作り上げていった。
明治維新後、ずっと不平等条約に悩まされていた日本は「自分たちがいかに一流であるか」を世界に示さねばという強迫観念があった。当時の世界的世論は「アジアなんて奴隷の国なんだから植民地でじゅうぶん」という認識だったからだ。大航海時代からこっち、世界は白人欧米人種のものだった。そんな世界の認識を変えるのは容易でない。
大連の街を歩いていると、いたるところで欧風の壮麗な建物に出会う。一部はロシア人が建てたものだが、大半は日本資本による日本人の手によるものだ。「なんで日本人が欧米風の建物を大連に?」とあなたは思うかもしれない。日本風の建築物に作り替えても良かったのだ。そのほうがアジアの都市と相性も良かったかもしれない。
だが当時の日本人たちはそうしなかった。なぜか? 白人世界の一角を占めるロシアを倒して見せても、しょせん日本は野蛮人の国、軍事力がたまたまあっただけにすぎない。そう思われないよう、あえて同じ土俵で自分たちの実力を示そうとしたのではないか。しかも劣化コピーのような猿まねではなく、ヨーロッパの都市以上にヨーロッパ的な大都市を造り、繁栄させたかったのではないか。その上日本には宮大工などもいて、伝統的な日本建築だってやれるのだと。
例えば上野駅を模してこしらえた大連駅は2階が出発、1階が到着という今の空港のように画期的な駅だった。商業施設や官公庁だけでなく、大学や病院、メリーゴーランドが備わった電気公園なんてのも建てた。他の列強が植民地でやったのは文化を破壊し、住民をプランテーションで奴隷のようにこき使っただけだった。日本はそうではなかった。関東州や朝鮮や台湾では高等教育や文化育成も行い、東南アジアから独立の有志を募って教育を受けさせ、帰国後独立できるよう経済支援さえしていたのだ。
海から入る者にとって最初の都市であり、海へ出る者にとっては最後の都市、それが大連である。当時の日本人たちは大連の都市づくりにいっさい手を抜かなかった。海と陸の玄関であり、アジアとヨーロッパの玄関でもあった。これはショーケースでもあったのだ。
大連新旧建物比べ
▲ 大連警察署(日本統治時)【出典:人民美術出版社】
▲ 左:大連警察署 (2015年現在)
▲ 横浜正金銀行大連支店(日本統治時)【出典:人民美術出版社】
▲ 現在は中国銀行大連支店(2015年現在)
▲ 南満州鉄道株式会社本社ビル【出典:人民美術出版社】
▲ 同建物(2015年現在)
▲ 大連埠頭・満鉄供給事務所(右の建物)【出典:人民美術出版社】
▲ 大連湾岸事務所(2015年現在)
▲ 大連市官庁【出典:人民美術出版社】
▲ 現在の同ビル(2015年現在)
▲ 日本人は当時20万人も住んでいた(浪速町)【出典:人民美術出版社】
▲ 一部はまだ残るが、やがて取り壊されるのだろう
▲ 旅順工科大学【出典:人民美術出版社】
▲ 2015年現在は病院として使われている
▲ 街を走る日本製路面電車【出典:人民美術出版社】
▲ 現在も現役である
▲ 運転席も当時のまま
▲ 日本橋 (現:勝利橋)
▲ 郵便局(現:モバイル通信会社)
▲ 東大の安田講堂そっくりの大連公安局、同じ設計者なのだろう
数年前に建てたのに壁がひび割れてぼろぼろになる中国の一般的ビルに比べ、100年前後前に建てた日本資本のビルが今もしっかり現役で使われている。これは手抜きすることなく、しっかりお金をかけて建てたという左証ではないかと思う。中国政府は政治的には反日であるが、大連市はこれらの建物を「重点保護建築」 として永久に保護し、日本占領時に建てられたものであることを今に伝えている。そこが日本統治時代の建物を次々に壊していった韓国とちがうところだ。
歴史認識では「日本は中国を侵略して略奪した」といいつつも、客観的な事実は事実として伝えているのだ。
▲ 摩天楼が広がる大連の中心街 新旧織成すハーモニーもまた大連の魅力である
断片的でバラバラだった歴史観がピタッとつながるのを感じた、今回の大連の旅でした。次回はぜひ、大連から鉄道をつかってかつての満州の都市をそれぞれ訪問してみたいと思いました。
背後でカップルが結婚写真を撮影しているのに注目!
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