わたしはココよ、ココ・シャネル。
というわけで、ここんとこすっかりシャネルづいている。
べつにシャネルのスーツを着たり、香水をふりかけたり
ということではない。
彼女の生きざま、ことばにあらためて魅了されているのだ。
ここしばらく、彼女に関する本を読みあさり、映画も観た。
「いまなぜシャネルか?」と、発信者の意図も鑑みながら。
「自分の生き方で生きる女性」が支持される背景もあるだろう。
女性がそうであることは、男のぼくもおおいに共感するところだ。
シャネルの言葉に気付くきっかけは「せなか」であった。
「ひとの生きざまはせなかでわかる」と標榜し、
このごろぼくは街を歩いていても、仕事をしていても
周囲のひとの、せなかばかりをチェックしている。
そんな折り、ふと何かのコピーで目にしたセンテンス。
ココ・シャネルのことばだった。
服作りを通じて、彼女はそのことをなんども認めたのだろう。
「なるほど!」と思い、
なぜぼくがひとのせなかを気にしているのかを、認めた。
立つ、座る、歩く、ねじる、のばす・・
どの動作も、スタートはせなかである。
せなかが美しいひとは、動作が美しい。
せなかが美しくないひとは、動作も美しくない。
始まりは「せなか」から、きっかけもまた、そうなのだ。
彼女はまた、次のようなことも言い残している。
「男は40になったら自分の顔に責任を持て」という。
女性の場合、50顔にはそのひとの価値がにじみ出るのだ。
背中の美しさと、50歳の顔、
どちらも日々の積み重ねの結果である。
化粧や衣服といった物質的手段を人々に提供しながら、
ココ・シャネルはしっかりと、一朝一夕では変わらない
その人の生きざまや価値を、見据えていたのだろう。
70代で再デビューを果たしたとき、彼女は言う。
仕事をするようになって、病気がすぐに治ったわ
周囲に迎合せず、生きたいように生きた。
そのことで、どれほどの価値を彼女は世に残していったのだろう。
ぼくは彼女に遠く、遠く及ばないけれど、
彼女の言葉は、せなかにずしんと響くのだ。
ひとつひとつの動きが、あなたを作るのですね
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