ついに”吉野家”も牛丼を値下げしたという。
先行する”すき家”、”松屋”とのあいだで
三つ巴の安売り戦争勃発などと世間は騒ぐ。
さっそくテレビでは中年サラリーマンが映しだされ
「毎日食べてるので安くなるのはうれしいですね」
などとインタビューに答えている。
それを見て、強烈な違和感をぼくはおぼえるのだけど、
逆に猛烈に牛丼が食べたくなる視聴者もいるのだろうか。
それにしても牛肉が安くなった。
しかも霜降り肉といった高級肉が軒並みプライスダウンだ。
誰がなにを食べようが、食べまいが、ぼくの知るところではないが
なぜこんなにも霜降り肉が安くなったのか、
知っておくのも悪くないだろう。
以前の記事で、人工的に霜降り肉を生産することを書いた。
方法はまだある。
牛を慢性的なビタミンA不足にするのだ。
ビタミンAが不足すると鳥目になり、失明するのは人間も同じ。
目が見えなくなった牛には体内に異常が起こり、
脂肪が肉の中に細かく分散するようになるという。
これならどの牛でもカンタンにできる。
めくら牛の大量生産、これが安い霜降り肉の正体である。
目の見えない牛、けれども子豚よりマシかもしれない。
生まれたばかりのかわいい子豚、しかしその運命は残酷だ。
彼らは生まれるとすぐに、狭い枠の中に閉じこめられる。
身動きがまったくとれない子豚の、鼻の先にはベルトコンベア。
そこに餌が流れてくる。 特別にあしらわれた餌である。
たっぷりと食欲増進剤と抗生物質が含まれているのだ。
増進剤のおかげで食べるほどにおなかが空き、
抗生物質のおかげで病気にもならない子豚。
コンクリートの枠の中、食べて、太り、食べて、異常に太る。
太陽も星空も、走り回る野原も、流れる小川もしらない。
ママも、遊び相手も、そこで四肢を伸ばす喜びもしらない。
半年間、ただ目の前を流れる餌を食べるだけ。
叩けば痛みを感じるし、切れば赤い血が流れる。
食料である前に、生き物なのだ。
ある日、釈放されるかのように豚は枠から放たれる。
太陽のもとに出れたが、しかし己の運命を予感してしまうのだ。
豚にとって生まれてはじめての運動は「後ずさり」である。
直後、高圧電流で殺される。 アウシュビッツさながらに。
求められるのは効率。 エサを与える期間は短いほうがいい。
本来なら豚だって、犬と同じで10年は生きれるのだけど。
その現実にぼくたちは涙のひとつも流すべきなのかもしれない。
精肉を工業製品になぞらえ、可能な限りコストを落とす。
それらは往々にして、自然の摂理を超えがちだ。
身体に異常を起こさせたり、
抗生物質漬けの肉がそれほどありがたいのだろうか。
そこまでして肉を安くしなければならない理由などない。
牛丼を300円以下で食べなければならないほど、
日本人は飢え、貧困にあえいでいるのだろうか。
結果、100円あたりの摂取カロリーはまた増える。
食べる者もまた、太らされているのだ。
ぼくは菜食主義者ではない。 牛も豚も食べる。
生きていくためには動物性たんぱく質も必要だ。
血肉を得るために血肉を採る、それは自然の摂理でもある。
けれどもつくづく思うのは、
肉なんて高級食材のままでいいじゃないか、ということだ。
そのほうがたまにありついたときの、ありがたみが増し、
手のひとつもあわしたくなる、というものだ。
狂牛病もブタコレラも鳥インフルエンザも、すべてはコスト至上主義が行き過ぎて牛のエサに牛肉を使うなど「共食い」をさせた結果とも言えます。「食べ物の恨みは怖い」の本当の意味は「食べられる物の恨みは怖い」なのかも?
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