もうあなたは大人なんだから、ものの分別をつけなさい
なんてことをいわれる。 「ものの分別かあ、」と思う。
どうだろう? 見かけはおじさんだけど、
分別についてはちょっと自信がない。
ゴミの分別については、さらに自信がない。
そもそも、なぜ必要なのかもよくわからないのだ。
世界を見渡しても、日本ほどゴミの分別にうるさい国はない。
リサイクル先進国ドイツと比べても、だ。
あなたが出している家庭ゴミを処理しているのは、
たいてい自治体の衛生部というところである。
「ゴミ処理」とはつまり、収集して、燃やす、ことをいう。
「なんで日本だけこんなにゴミを分別しているんだろう?」
いちど気になると、とことん気になるタチである。
つい、いろいろ調べたくなるタチである。
なぜ紙モノとプラスチックものを分別するかといえば、
紙は燃やしても害がないが、プラスチックは毒性があるからだ。
なんてことをいう。 たしかにプラスチックに火をつければ
黒い煙とともに、異臭がする。 からだにも悪そうだ。
だから「燃やすと毒だ」といわれれば、ああそうかなと思う。
むかし何かの番組でゴミ焼却炉のことが紹介されていた。
「プラスチック類を燃やすと炉が高温になり焼却炉が傷む」
などと説明されていたように記憶する。
そのときは「ふーん」と思っていたのだけど、調べてみると
プラスチックに含まれる有毒物質は850度でほぼ分解される。
ダイオキシンですら900度で完全に分解されるという。
この程度の熱で痛む焼却炉なんて、そもそもヘンだ。
40年前ですら、1400度もの高温でセメントを燃やしていたのだ。
ところがさいきんになって、地区によっては
プラスチックと紙を分別しなくてもよくなった。
なぜか?
その地区では焼却炉を最新のものに買い替えたからである。
つまりぼくたちがこれまで細かくゴミを分別させられていたのは、
「焼却炉の性能が時代遅れだったから」ともいえるのだ。
ゴミを1200度くらいで高熱処理すると、飛灰、メタル、スラグの3つが残る。 このうち飛灰とメタルは非鉄金属産業が再利用でき、スラグは土に戻る。
ゴミを燃やさず、あるいは中途半端に燃やして埋めればあっという間に埋める場所がなくなる。 かつてあった「夢の島」はこうしてできた。 おまけに有害物質がにじみ出て土壌や河川、海を汚染するので問題にもなる。
そういう問題を目の当たりにしていれば、
「このままじゃあぶない、分別しなきゃ・・」
という脅迫観念にとらわれても無理はない。
だけど高温で燃やせば体積は減るし、
有害物質もほとんどでなかったのだ。
△ 広島市中区にある最新型ゴミ焼却炉。まるで博物館である。やればできるのだ。
結局のところ、ゴミ分別の習慣を国民におしつけたのは
自治体のサボタージュが原因だったのかもしれない。
あるいは国の。 焼却炉を当時から最新のものにすれば
ことはすんでいたかもしれないからだ。
問題は予算だ。 財政は厳しい。
おいそれと焼却炉を換えてもいられない。
そう考えるのはまっとうだ。 コスト意識は常に持つ必要がある。
これがあれば、ムダな道路も空港も作らなかったであろう。
けれどもゴミ焼却炉について言えば
古い焼却炉を修理しながら使い続けるほうがコストがかかるのだ。
おまけに分別処理をするのに必要なコストは国民一人当たり4千円。
リサイクルするにはさらにコストがかかる。 それこそムダだ。
リサイクル業者と自治体、
さまざまな天下り団体との癒着も明るみになってきている。
ゴミはトラックで収集されたら、
ただちに一ヶ所に集め高熱処理する。これでいいのだ。
重金属など、分別は燃やした後でやればいい。
「地球にやさしいから」などと大上段に構えず、
「家計にやさしいから」とまずは節約すればいい。
ムダなものは買わず、ものをたいせつに使う。 電気をまめに消す。
それでいいではないか。
「ムダなゴミは出さない」のは節約のためと、子供たちに
「ものをたいせつにする」という気持ちを育てるためだ。
それをわざわざ「エコなんとか」に置き換えて語られることに、
ぼくにはどうにも、うさんくさい。 臭すぎる。
なんてことをいつまでも言っているから、
「ものの分別をつけなさいね、もう大人なんだから」
なんてことをいわれちゃうんでしょうね。
ばぶー。
「燃えないゴミ」の正体は、燃やすための努力をしてこなかったというだけだったのですね。 ゴミも脂肪も燃やせばすっきり!
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