8月15日は終戦記念日といわれる。
「どうして敗戦記念日といわないんだ!」となぜか怒るひともいる。だけどあえていえば、1945年8月15日はポツダム宣言(降伏勧告)を日本が受諾したことを、天皇が自らラジオ放送を通じて国民に伝えた日であって、武装解除のうえ休戦しただけであった。日本のポツダム宣言受諾は、前日の8月14日に中立国(スイス、スウェーデン)の日本領事館を通じ、連合国側に通達されている。
ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフには、まだそこが東ドイツだったころに訪れたことがある。宮殿というよりは瀟洒なお屋敷で、庭に赤い星をかたちどった花壇があった。「日本政府が日本軍に対し即刻無条件降伏するよう保証せよ」などうたうポツダム宣言は、米英中の3カ国で署名したとあるが、実際のところチャーチルは選挙に敗れて首相でなくなっていたし、中華民国の蒋介石はそもそもポツダムに来てすらいない。しかたがないので2人の署名はトルーマン米大統領が代わりに偽書したとある。ソ連のスターリンもポツダムで会談はしたが、原爆を開発し終わっていたアメリカにとってソ連は用済みであった。彼らの力を借りずとも日本を倒せると、スターリンをはずして宣言をした。そんないわくつきの場所に「赤い星」を敷いてみせたのはスターリンの執念のような気がする。
ポツダムといえば、個人的にもイヤな思い出がある。市内を走るトラム内で、上着の裏にネオナチのバッヂをつけた集団に襲われそうになったのだ。どうやら中国人と間違われたらしい。あわててパスポートを見せ「ハルト!イッヒ・ビン・ヤパーナー!(まて!日本人だ)」といったとたん、彼らの表情が柔らかくなり、最後は握手して別れた。ともあれチンピラにパスポートを見せたのは後にも先にもこの時だけである。
▲ポツダム会談がなされたツェツィーリエンホーフ宮殿
とにかく、ひとりで3カ国分の署名のはいったポツダム宣言は1945年7月26日に各国の通信社に流された。日本政府も耳にしたが無視をした。トルーマンがチャーチルと蒋介石の偽署名をしたからではない。肝心の国体護持(天皇の地位が守られること)があいまいだったからである。もちろんアメリカは国体護持を保証しなければ日本は降伏しないだろうことは承知の上だった。ソ連を通じ、日本が終戦したがってることも知っていた(日本はソ連に講和の仲介を試みていた)。戦争を終わらせ、これ以上アメリカの若者を死なせたくないと思うなら日本に「敗戦後も国体は護持する」と伝えればすんだのだ。事実その動きもあった。だが反対された。後に「原爆を落とさなければ日本は降伏しなかった」とアメリカは弁明するが、「先に降伏されては原爆が落とせなかった」というべきだろう。わざわざウランとプルトニウムの2種類の原爆を、それまで空襲を避けてきた広島と長崎(予定では小倉)に、しかもダミー機を飛ばし一度空襲警報を解除させ、人びとが安心して防空壕から出たところを狙って投下したのだ。人体実験だったのでは?の疑いをまぬがれない。
ポツダム宣言に国体護持条項は加えられていなかったが、天皇は「我が身がどうなろうとも・・」と玉音放送に応じた。お上から直接「ポツダム宣言を受諾するから武器を置け」と言われては、軍も国民もそうしないわけにはいかない。
日本が正式に敗戦したのはアメリカ戦艦ミズーリの甲板の上で行われた降伏調印式。1945年9月2日のことだった。アメリカを始めとする連合国諸国はこの日を対日戦勝記念日としている。とすれば日本にとってこの日が敗戦記念日となる。なぜか中国は翌日の9月3日を「抗日戦勝記念日」としている。翌日にずらすのは中国の勝手都合としても、当時戦争相手だったのは同じ中国でも中華民国。中華人民共和国などそのとき世界のどこにもない。共産党軍が中華民国を台湾に追い落とし、建国したのは4年も後のこと。なのに今年は戦勝70周年と大騒ぎである。ちゃっかり過ぎるではないか。「貴国に敗戦した覚えはないが?」と教えてあげたい。
▲降伏文書署名のようす
それにしてもこの対日降伏調印式はおそまつであった。日本一国に対し戦勝国は9カ国。それら戦勝国代表らがよってたかって署名した。彼らとて緊張していたのだろう。まずカナダ代表がまちがえてフランス代表欄のところに署名してしまった。フランス代表はそれとは気づかず下段のオランダ代表の欄に署名。オランダ代表は間違いに気づくが、マッカーサーに促され、渋々ニュージーランド代表の欄に署名。カナダ代表はあらためて空白に署名しなおす。そんな文書をうやうやしく拝受する日本代表団のひとりがまちがいに気づき指摘すると、マッカーサー(本人ではなく参謀)がめんどくさそうにそこに斜線を引く。まるで出来の悪い子どもの答案用紙である。これが10カ国が署名した公式文書となった。ポツダム宣言といい、この降伏文書といい、こんなものに国の運命がゆだねられたのかと思うと犠牲者が不憫でならない。
▲これがその問題の降伏文書署名欄
日本軍が休戦に応じ、武装解除したのが8月15日。
だがソ連が北方領土にやってきたのはその後だった。まず8月28日に択捉を、9月1日に国後と色丹、2日は歯舞にそれぞれ攻め込み占領した。丸腰の日本軍や日本住民を襲い、制圧した。ソ連兵は住民から略奪し陵辱し殺戮した。つくづくひどい国である。けれども実際のところソ連はポツダム宣言から外れていたし、日本はまだ降伏調印前だった。つまり日本は少なくとも9月2日まではソ連に対しては武器など捨てずに応戦し、領土を護っても良かったということだ。そうしなかったんだから北方領土侵攻は合法であり、日本はただ戦闘放棄していただけ、というソ連(いまはロシア)の言い分も、認めたくはないが一理ある。これも8月15日が終戦し敗戦したと思い込まされてきた日本の悲劇ではなかったか?
そんなことを70年の節目に思う。
戦争のない世界は素晴らしい。
勝者も敗者も必要ない。
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