「どうすれば許してもらえるのだろう?」
なんど謝罪を繰り返しても、あいかわらず歴史問題を持ち出す中国、韓国、そして北朝鮮。 かつての日本は彼らにいったいどれだけひどいことをしたのだろうか?と、自責の念に駆られる。 このためある種の人たちは、あんなひどい戦争をおこした当時の日本を憂い、羞恥し、中国や韓国をおもんぱかり、共同でたとえば靖国へ参拝しようとする政治家をまるで罪人のように叩く。 教科書で子供たちに「日本はアジア諸国にひどいことをした」と教え、日本が良いことをしたことについては教えない。 なぜかはわからない。 でもそうする。 ぼくもそうされたし、あなたもされたはずだ。
「ある種の人たち」の中にはマスコミや日教組もいる。 大衆や、世の中が未だよくわからない子供たちに「教えてあげる」立場の人たちである。 「洗脳」という手段も使える。
ある種の人たちは、当時日本は軍国主義だったからあのような戦争を起こしたのだとし、逆に平和を望んでいれば平和でいられると単純解釈している。 厭戦気分(戦争に嫌気がさすこと)が蔓延し、自分たちに不幸をもたらしたとされる犯人探しに奔走した。
やがて、東京裁判で裁かれた人たちを、戦前の日本を、軍隊を、あるいは当時の日本を肯定する老人たちをスケープゴートとして、しつこくねちねちと追求していった。 聞く耳もたない相手には、中国人や韓国人の口を使って「ほらほら被害者の人たちだってこんなに怒ってるよ」とけしかけた。
そのいっぽうで「私たちは戦前の日本人とは違う。 もう戦争を望んだりはしないし、アジアに迷惑なんてかけない」などと言いきり、『憲法第9条』をまるでバイブルのように掲げ持った。 この人たちが憲法改正にものすごく抵抗をするのは、これが理由だ。 もともと占領軍であったアメリカ人が自分たちに都合よく作ったことを忘れ、まるで神が作ったかのように崇めているのだ。
頭のいい人たちなのだ。 少なくても自分たちはそう思っている。
我が国にとって不幸だったのは、このコンセンサスがみごとに周辺諸国のプロパガンダと一致してしまったことだ。 「反日」の旗の下に集まったあんな人たちやこんな人たち。 いつしか歴史問題は政治的解釈にゆだねられ、外交手段の要素となった。
ともあれ、ぼくは歴史はきちんと検証すべきだと思う。
史実を、客観的かつ科学的に正しく知りたいと思う。 おそらくあなたもそうであるはずだ。
けれども中国や韓国はそうではない。
たとえば中国。
よく中国は4千年の歴史といわれるが、中華人民共和国の歴史はたかだか60年である。 易姓革命の連続である中国大陸においては、そこを新たに支配するものが前政権(王朝)を否定することで、その正当性を示すのが通例だ。
よって、現在の中華人民共和国が建国された1949年以前は暗黒時代であったと教科書で教えている。 共産党の政敵であった国民党が悪政を敷いていたと言い、日本の侵略で数千万人も殺されたと教える。 そんな悪を倒し、人民を絶望の縁から解放し幸福に導いたのが我らが毛沢東率いる共産党というわけだ。 自分たちを正当化するためには、それまで個々を支配していた者たちがいかにひどいことをしたかを強調する必要があった。
特に日本に対しては容赦しなかった。 いかに残虐で、矮小であったかをくり返し強調した。 女とみれば子供だろうと老婆だろうとレイプし、人体実験で多くの中国人を屠殺したと教える。 闇は暗ければ暗いほど、より光は輝いてみえるのだ。 日本人が悪人であればあるほど、それを倒した共産党軍の功名はより輝くのである。
日本軍が戦っていたのは蒋介石の国民党軍であって、毛沢東の共産党軍ではない。 しかも日中戦争は太平洋戦争が始まる1941年の段階で日本軍はほぼ中国主要都市を占領し、決着がついていた。 蒋介石政府に代わり、日本に後押しされるかたちで汪兆銘率いる南京政府が事実上の新しい政権であった。 百歩譲って日本が悪者だとしても、それを倒したのはアメリカだ。 中国共産党軍ではない。
史実がどうあれ、中国共産党は決して自分たちに都合の悪いことを教えない。 事実を伏せるどころか真反対のことを教えることもある。
歴史問題とは、つまりはそういうことである。
いまの中国共産党の正当性を神話化するために、反日はやめられないのだ。 どれだけ科学的かつ論理的に南京大虐殺や万人坑が日本軍によるものではないと証明されても、それを認めるわけにはいかないのである。 中国の学生は70年代の文化大革命の失敗や89年の天安門事件ついては教えられないが、南京大虐殺についてはたっぷり時間を割いて教えられるのだ。
1945年の敗戦によって日本人が去った朝鮮半島に戻ってきたのは、日韓併合により利権を剥奪され特権を奪われた朝鮮半島の元支配者、李朝の亡命政府や両班のひとたちであった。 その数300万。 彼らはまず日本人に手を貸していた前政権の者たちをことごとく粛正し、日本人と少しでも親しかった民衆を懲罰した。 日本や日本人のことを少しでも良く言う人間を排除することで、自らの存在価値を示していった。 日本人が残していった文化や風習をやめさせ、日本人が残したあらゆる資産を目に見えるかたちで、あるいはそれとわからぬよう没収していった。
彼らは実力で日本人達から土地と取り戻したのではない。 連合軍によって取り戻され、与えられたに過ぎない。 そのことが彼らをより卑屈にさせたのかもしれない。 彼らには現政権につく正当性に乏しかったが、権力を維持、強固なものにしていくために反日的であることが民族的に正しいのだと言い張った。 前政権から権利を剥奪するために「親日野郎」がいかに悪で卑怯で、反民族的であったかを繰り返し強調したのだ。
そこで「親日 = 売国奴」という図式が打ち出される。
言い換えれば「反日 = 愛国心」である。
こうなってくると史実がどうであったかはもはや関係ない。 日本人の悪いところはいかに些細なものであっても拡大強調し、良いところはことごとく抹消するか、もともと朝鮮のものだったと言いはじめた。 するとだんだんつじつまが合わなくなってくる。 そこでずっと中世、古代にまでさかのぼって自分たちの都合のいいように歴史を作り替え始めた。 荒唐無稽であろうとかまわない。 声の大きいほうが勝つのだ。 日本の天皇家は朝鮮人とされ、任那日本府は抹消された。 日本人はもともと残虐性があり野蛮人であると教え、日本は自分たちが作ってあげたと教えている。
中国と韓国、北朝鮮。
自分たちの歴史的解釈にはいくぶん行き過ぎるところがあったと認めていないわけではない。 「さすがにこれはちょっと歪曲が過ぎるよなあ」などと認め、やはりきちんと正史に向き合わなくちゃいけないのでは?という良識派もいる。 けれども少しでも親日的な発言をすると立場が危うくなる。 日本とはまるで逆なのだ。 たちまち世論から袋だたきにされる。 こうした世論にとって心強いのが、「ある種の人たち」である反日日本人である。 「日本人だってああいってるじゃないか。 おれたちは間違ってはいないのだ!」と。
反日日本人。
彼らの存在は日本はもちろん、アジアの良識派にも不要である。
歴史問題はほんらい、歴史的に解決するものである。
それを政治や外交問題にすり替えること自体がまずおかしい。 けれども中国も韓国もこれが功を奏して、あんがい使える外交手段であることを学んだ。 贖罪意識で日本を黙らせ、譲歩させたり賠償をせしめたりした。 裁判でありえない判決を勝ち取ったりした。
反日こそは、戦後の中国共産党や韓国北朝鮮を正当化するために必要なエレメンツである。 当時の日本は良いこともしたというどんな歴史的発見がこの先あろうと無かろうと、自分たちの正当性を堅持し続けるためには、おいそれと日本の功績を認めるわけにはいかないのだ。
これこそは歴然とした事実である。
いまぼくたちができる事は世論に流されず、粛々と客観的史実がどうであったかをまず知ることだと思う。 勉強することだと思う。 日本人はもともと対立するより融和を好む性質がある。 それが利用されている事実を冷ややかに見つめ、あえて毅然としてればいい。 そんな国民にぼくたちひとりひとりがなれば、政治家だって謝罪外交に翻弄することもなくなる。 それが支持されないことを悟るからだ。
利することがなければ、中国や韓国もあるいは態度を変えてくるかもしれない。
歴史問題を政治問題にしない。させない。
それがこの国を想って亡くなられた方への
これから日本を背負って立つ次の世代への
ぼくたちのできる配慮ではないだろうか。
とぼくは思うのだけど。
とても長い記事なのに、最後まで目を通してくれてどうもありがとうございました。 足あと代わりに小さなコメントでもいかがですか?
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