ブログのことを、日本ではたいてい日記と呼ぶ。
それをぼくは、あまり深く考えもせず「記事」と呼んでいる。 日記というにはあまりにも煩雑でテーマがあちこち飛ぶし、なにしろリアルタイムでもない。
生まれてこのかた40数年、ずっと民主主義の国々で暮らしてきた。 だのにいまだに「大勢の意見は正しい」という考え方が馴染めない。 それはたぶんぼくがひねくれものだからだ。 別に好きでそうしているわけじゃないのだけど、むしろ「5%の意見」とかに真意を見つけたりするタイプだ。 正しいことに「数の多寡」は関係ないんじゃないかと思う。
そんなぼくは、「自分が言わなくても誰かが言うだろう」的なことはわりとどうでもいい。 それより「自分が言わなければ誰も言わない」ことにこそ関心がある。 想像つくとは思うけど、こういう生き方はなかなかしんどいものがある。 「みんなと同じ」ことが正しいと信じるひとたちにとって、ぼくはどちらかと言えば「ヘンなひと」である。 日本に住み日本語を話す日本国籍の人々の間においては、特にそうだ。 たまにそんな人たちから「どうせ、なおきんはドイツ人だから」と言われることがある。 あんまりである。 ドイツでは「典型的な日本人だ」と呼ばれていたのに。
ともあれ、情報過多な時代である。
タダでいろんな情報が、しかも簡単に手に入る。 ネットだけではない。 フリーペーパーの類いもずいぶん増えた。 必要であれ不必要であれ、それらは圧倒的な存在感で人の暮らしに根ざしている。 また、ツイッターなんかを見ていると頭がズキズキしてくる。 まあ慣れもあるんだろうけど、こんなものを頭痛なしに見れる自分になるほうが心配だ。
ブログをやめてしまおうと思った理由。
そのひとつに、これ以上どうでもいい情報をネットに流すことに罪悪感を感じ始めたこと。 これはもう、ある種の環境汚染なんじゃないだろうか、と。 ぼくもそのうち「自分が言わなくても誰かが言うだろう」的な記事ばかりを書いてしまうかもしれない。 それは「なんでも多数決」の民主主義と同じ跌にはまることでもある。 ネットには文字が残る。 検索エンジンにもひっかかる。 検索サイトでイラ写がもっともヒットするキーワードは、なんと「ヌーディストビーチ」である。
「その他大勢」はネットではただの「名無し」だ。 誰かが言う言葉を繰り返すだけである。 しかも特定できないことを隠れみのに、自分がネットに放った言説についてなんの引責も受けない。 その言葉で誰かがどこかで死んでしまうかもしれないが、そのことでカスリ傷ひとつ負わないし、罪の意識ひとつも生まれないかもしれない。
そんな時代に、ネットに言葉を残すということが怖くなる。 ブログに残したすべての記事を削除したい衝動にすら駆られる。
それでもぼくはブログを再開した。
それがよかったのかどうか、
自分にはまだよくわかっていないのだけど。
今回の記事はすこしネガティブモードでしたね。倦怠感かな?
この記事へのコメント、ほんとうにありがとうございました。お返事はこちら(音声ブログ)でさせていただいています。
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