仕事で能登半島にやってきた。
羽田から能登空港まで約一時間。 目的地の七尾市はそこからさらに乗り合いタクシーで一時間半のところにある。 人口6万人ちょっとの七尾市は、急速に高齢化が進んでいて、すこし未来の日本を見るようでもある。 空港からのタクシー運賃は1,300円、乗り合いとはいえずいぶん安い。 もはや市営バス並である。
鉛色の日本海、タクシーは海岸に沿ってひた走る。
小雪が混じっていても不思議じゃないほどに、海はもう冬のそれだった。
「へえ、あんなところに神社がありますねえ」と同行した若い営業担当S氏が言う。 見ると、海につきだした小さな森の入り口に灰色の鳥居が見えた。 やがて車窓に雨粒が当たり始める。
車が目的の建物の間に到着したのは13時で、客先との約束より30分ほど早い。 が、時間をつぶすにはあたりに何もなさすぎた。 「あっちのほうに喫茶店がありました」 しばらく周囲の様子を見ていたS氏が弾んだ声で言う。
くすんだオレンジ色のテントに剥げかかった純喫茶という文字。
「”じゅんきっさ”ってなに?」 遠い昔、覚えたばかりの漢字の意味をぼくは祖母に尋ねたことがある。 「それは・・・」と口ごもる祖母。 不意に曇る祖母の表情に、追憶のどこかに苦いものを想起させてしまったに違いない、と小さなぼくは思うのだ。 単に、知らなくて答えられなかっただけかもしれないが。
とにかく店に入ることにした。 東京から着てきたスーツは雨まじりの強い風で冷たく湿っていたのだ。
カラン・・
狭い店内はカウンターが一列、それからなんと、お座敷。
カウンターの席に年老いたおじいさんがひとり、こちらをじっと見ている。 おじいさんはしばらくぼくたちを見ていたが、やがてあきらめたように、小さく「いらっしゃい」と言った。 店の人だったのかよ!
「ここ座っていいですか?」
カウンターを指さしてそう訊けば
「コーヒー?」 とおじいさんは答える。ていうか、訊く。
どうやらおじいさん、耳が弱いらしい。
客なんていつぶりだろう? と思わせる店内であったが、おじいさんはゆっくりとカウンターの内側へまわりこみ、慣れているとは言いがたい手つきでガラス容器にドリッパーを乗せる。 そして苦労してコーヒーフィルターをセットし終わると、くるりと背を向け棚から茶筒を取り出した。
「おじいちゃん、お茶じゃなくコーヒー・・」
と声が出そうになったが、茶筒の中はコーヒー粉であるらしかった。 ある意味ブレンド。 まさに和洋折衷。 忘れてはいけない、ここは能登半島なのだ。
コポコポコポコ・・
おじいさんはヤカンで湯を沸かしてから、それを両手で持ちコーヒーフィルターに注ぎはじめた。
立ち上る湯気がおじいさんを包む。 その姿はまるで古いヨーロッパの聖画を思わせた。 ゆっくりと湯を落としている途中、ガクガクっとおじいさんの入れ歯が外れそうになり、いまにもフィルター内に落ちてしまいそうである。
ああ神様、そのブレンドだけはご勘弁!
と思った瞬間、おじいさんは掴んだヤカンの片手を離し、すかさず入れ歯を口の中に押し込んだ。 間一髪。 コーヒーは無事だったが、はたしておじいさんは手を洗ったのだろうか。
出されたものはコーヒーに違いないが、紅茶というよりはコーヒーに近い、といった感じの飲み物であった、などと贅沢を言ってはいけない。 こうして雨と寒さがしのげただけでも幸運と思わなければ天罰ものだ。 おじいさん、ありがとう。 でも入れ歯はポリデント。
カウンターには小さなメニュースタンドがあった。
『肉丼 はじめました 六百円』と書かれている。
いつはじめたんだろう? おそらく昭和ではないのか? と思わせるにじゅうぶんなほどその紙は古く、日に焼けていた。 それより肉は? いつ仕入れたんだろう、とそっちのほうも心配である。
ときは昭和末期、
バブル絶頂のうかれた都心を尻目に、この町の話題はもっぱらこの純喫茶が始めた『肉丼』であった。 「松五郎さんとこのほらあの店、ついに肉丼はじめたんだってよ」「ちくしょう、アレうめえんだよな、いつか食いてえなあ」・・などと町中その話で持ちきりなのだ。 「寒くなったよねえ、そろそろ肉丼の季節だねえ」と誰かが言えば「もうそんな時期かあ、道理で人恋しいはずだねえ」と別の誰かが答える。 「どっちかってえと、おいらは肉布団のほうだっぺ」お決まりのシモネタは、お調子者の源さんだ。 「そうそう!」「マスター!肉布団ふたつ、大至急!」などと悪ノリするおじさんたち。 ふだんは寡黙な海の男達も、肉丼のことになるととたんに饒舌になる。 そんな情景を目に浮かべながら思う。
平成のか弱さに比べ、昭和のなんと骨太なことか。
▲ 『能登半島【石川さゆり】』カラオケバージョン
こうして時は移ろい、昭和は遠くなるばかり。
冬はもう、そこまで来ている。
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