そういう一日がある。
出会う人間が一人残らずまともじゃない。 鏡を見ると、
自分もそのうちのひとりなのではないかとだんだん思えてくる。
『レイモンド・チャンドラー【リトル・シスター】』
こういうフレーズが、なぜか好きである。
人間生きていれば、たまにはとんでもなくひどい一日がある。 例えばそういう一日をふりかえりながら、ただ「最悪の一日だった」で済ますんじゃなく、ちょっと斜め上から自分も含めて見下ろせる感じ。そんな余裕を持ち合わせたいと思う。
日本に長く住んでいると、自分の輪郭がだんだんぼやけてくる。 他人との境界線があいまいになる、というか。
「隣に立つ男とぼくのなにが違うんだろう?」 とふとそんなことを思う。 もちろん多くの点で違うのだろう。 でも、だんだん自分が他人と違うことに不安を覚えもする。 置いてけぼりにされたような気になってくる。
そんな不安は海外で暮らしていた頃は思いもよらなかったことだ。
そういうのをあるいは「歳を取った」というのだろうか? そのあたりが、もうひとつよくわからない。
他人との違いを自分に見つけては、うきうきしていた。 一日に見つけられる他人との違いを数えもした。 そして10以上見つけられないときは、少なからず落ち込むのだ。
「なぜそうだったのか?」と訊かれてもうまく答えられない。 ただひとついえるのは、そんな自分はいまよりずっと自由だったような気がする。 残念なのは、日本で暮らしていると、ものごとの平均値をつい意識してしまうことだ。
そんなの本来、どうでもいいことなのに。
あらためて「自由」について考えてみる。
自由とは決して「好きなことができる」状態のことをいうんじゃない。 ひとそれぞれ解釈があるだろうが、ぼくの考える自由とは「ひとと同じでなくてもいい」状態のことをいう。 封建主義であろうと、経済合理主義であろうと「同一性」こそはものごとを押し進めやすい。 教室だって生徒がまとまっていてくれたほうが教えやすいし、社員だって管理しやすい。 自由に振る舞おうとする人間には「空気を読め」などというが、要するに同一性の強要である。
この息苦しさ。 閉塞感。
ちゃんとそのことに気づく感覚こそが正常だ。
「違和感を覚えたら、それがオマエの個性だ」
かつてそんなことを言ってくれたひとがいる。
高校時代の親友。 18歳でさっさと死んでしまったが、残された言葉はぼくの中で今なお重い。
日常。 ひとは日常によって作られる。
ふだん考えてしまうこと、ふだんとってしまう行動。 ぼくたちはそれらに支配されている。 ひとはそれぞれに思うひとになり、それぞれに行動どおりのひとになる。
だからたまには、ちょっと斜め上から自分を見下ろしてみる。
修正すべき日常はあまりにも多い。
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