地震がやってきて、津波がやってきたときも
119番は鳴り止まなかった。
「かけてきた人は木の上からでした」
と消防士の友人Sは言う。
神奈川県に避難している妻と娘に久しぶりに会い
同じ日、日本橋にあるしゃぶしゃぶ屋で鍋を囲んだ。
そこにぼくもおじゃまさせてもらったというわけだ。
水が足元まで迫ってきてるんです!どうすればいいでしょうか!
電話の主は絶叫、だが消防署にいる彼はどうすることも出来ない。
「もう少し高く登ってください」
駆けつけようにも車両は全て出払っていて、
あったとしても、クルマは水の上では行動できない。
登れと言われても、あとはもう枝しかないんです!
あっ船だ、船がいま横を通り過ぎました!
道路にあった車は流され、代わりにやってきたのは船である。
Sは「がんばってください!」と励ますのがやっとだ。
無念である。
あとで、同じ人から「あのときはありがとうございました」と
やはり119番に電話があったのだそうだ。
「次の通報はクルマの上からでした」
車を運転しているところを津波にさらわれ、沖に流されたのだ。
海の船は陸に流され、代わりにやってきたのは車である。
海を漂流してます。助けてください!
やはり為す術はない。
平時ならヘリコプターの出動だ。だが飛ばせるヘリがない。
だが助けたのは皮肉にも次にやってきた津波だった。
その人は車ごと押し戻され、奇跡的に元の場所に戻ってきた。
「クルマって少しの間なら浮いているんですね」
まるで漫画の世界だ。でもよかったと思う。
電話は次々とかかってくる。かける人にとっては
何度も何度もかけて、ようやくかかったのだろう。
文字通り、命のダイヤルである。
流されている家の中から通報してくる人もいたという。
いったいどこへ流されているのでしょうか・・
不安さが受話器いっぱいに伝わる。次々に住所が変わっていく家。
普段の暮らしの中で、誰がそんな光景を想像しただろうか。
Sは3杯目のビールをお替わりする。
「人命救助は72時間が制限です」
疲労は限界を超えていたが、そう思えば休めない。助かる命が自分たちが休息している間に助からないことがあってはならない。
そう思えば、冷たい握り飯だってごちそうである。
「一日目はコメだけでした。二日目もコメだけでした。
三日目に塩がふってあり、四日目には梅干が入ってました。
隊員たちと『復興している!』と喜び合ったものです」
Sはまぶしそうに小皿の中のキャベツを見る。
「新鮮な野菜なんてもう、何日ぶりか・・」
いわき市の中心街はすでにゴーストタウンだという。
地震にも耐えた。津波もよけた。だが放射能がせまっている。
一度避難所へ逃げた人たちが、再び自宅に戻りはじめた。
もう大丈夫、だからではない。
避難所生活よりはマシ、と考えたからだ。
電気は止まったままだが、ガスはある。水も出るようになった。
被災場所の残酷で陰惨な話も聞いた。だがここには書かない。
書きたいのはそれより、日本人の底力だ。
Sは、自衛隊員100人を指揮下にいわき市の被災地で、
瓦礫の中から希望を掘り当てる毎日を過している。
そこにあったはずの家がなく、ありえない場所に船が横たわる。
「そんな中でね、消防団の人たちはすごかったすよ」とSはいう。
名簿が流されていても、消防団の人たちの頭の中には、
ここの家には誰と誰が住んでいて、誰がいつから引っ越してきた
ということが、ちゃんと記録されている。
だから波に動かされた家を目印に、だいたいどこのひとが
どのへんに流されているかを察知できるのだ。
正規の消防隊員が舌を巻くこの消防団の人達は、
普段は寄り合いで昼間から酒をかっくらい、
近所の噂話ばかりをしていたのだという。
だがその情報こそが、人助けに大いに役立ったのだ。
新潟からやってきた陸上自衛隊員100人の働きも
実に素晴らしかったという。
だれもが熱いハートとタフな体を持つ防人である。
Sの実家も津波で流された。でも
「家ならまた建てればいいですから」と明るい。
いわき市の人たちはのんびりしているひとが多いのだと。
「流されちゃったねえ」「でも無事でよかったねえ」
などと話しているそうだ。
悲観は気分で変わる、だから楽観は意志なのだ。
政府や官僚、東京電力には言いたいことが山ほどある。
だがそのおかげで日本の底力を感じられた20日間でもある。
次はいわきで会おう!
グラスに残った酒を空け、
そういって、ぼくたちは別れた。
日本橋、三越前の通りはふだんの半分以下の明るさだ。
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