まだ朝の7時前だというのに、スーレー・パヤー(パゴダ)にはもう多くの参拝者が仏像の前で朝の祈りを捧げている。入り口ですすめられるままに花束を買い、ふらっと立ち寄っただけのわりには、参拝気分がもりあがる。
ヤンゴンの市街はこのスーリー・パヤーを中心に設計されている。ダウンタウンのランドマーク的な存在。若い人達が揃いのポロシャツにロンジーという姿で、水をまき、ほうきで境内をはいている。
ここに暮らす人々にとって祈りは生活の一部だ。
所在なく境内をうろうろしていると、ひとりの男に声をかけられた。「どこからきたのですか?」30代前半に見える男は、そういってからぼくが答える前に「私はチェンマイから来ました」と答えるのだった。
その男、名前をナイ・ミン・スーという。
一週間の滞在で度々ヤンゴンを訪れ、パゴダに参拝しているのだと。敬けんな仏教徒のようである。顔は四角で短髪、目鼻立ちのはっきりとしたなかなかのハンサムだ。
「あなたの生まれた日は何曜日ですか?」
ふいに意外なことを聞く。月日ではなく曜日?
火曜日、とぼくは答える。たまたま覚えていた。
ミャンマーでは誕生日は「八曜日」で表される。水曜日は午前と午後、それぞれを一日とカウントするからだ。
「ついてきて」
ナイはそういうと、前をすたすたと歩き出した。しばらくして、小さな仏像の前で止まる。ぼくに向かって振り返り、「これがあなたの曜日の仏像です」と言った。
教えられるまま仏像にカップで水をかけ、その下の獅子に水をかける。仏像に9杯、獅子に5杯。獅子は火曜日の守護神である。教えによると、水をかければかけるほど人生に平和が満ち、花を供えれば美が、ろうそくを供えれば賢さが、線香を供えれば名声がそれぞれ手に入るのだという。
「ここに座って」ナイは絨毯のしいてある場所を示す。
目の前には3体の仏像。ありがたい後光がなぜか電飾だ。このパゴダの名、スーレーとはブッダの聖髪を意味する言葉。そんなことをナイはぼくに話して聞かせ、「5分ほど瞑想するけど、いいですか」と訊く。もちろん、とぼくはこたえ、胡座をかき、手を膝の上で交差して目を閉じた。
その時、ざああっと突然シャワーのような音がした。
スコールだった。
そうして目を閉じ、雨の音を聞いた。
瞑想のあとで、ナイはぼくに小さな紙片をわたす。
紙片には1cm四方の金箔が付着していた。
「こうして仏像にはりつけるんだよ」
彼は目の前の仏像に、指で押し貼りしてみせた。ひとつは父親のため、ひとつは母親のため、最後のは自分のために。ナイはそう言いながら一枚ずつ、ぼくに紙片を渡し、ぼくはそれを仏像に押し貼りした。
雨は容赦なく身体を濡らし、裸足の足をぬらす。
ぼくはズボンの裾をまくり、ひたひたと歩いた。
自分のためでなく、誰かのために祈るという行為は美しい。
自分を支えてくれている多くの人や機会の存在を、ともすれば忘れがちの日常。祈りはそれを意識させ、感謝を呼び戻す。
スリーピング・ブッダに行きませんか?
二つ返事でぼくは答え、スーレー・パヤーを後にした。
雨はますます強く降るが、ナイは濡れるがままずんずん通りに進み、やってくるタクシーに手を上げた。
これ以上ポンコツの車はないだろう後部座席に座り、雨に煙るヤンゴンの街をがたぴしと北東へ向かう。運転手は途中、花売りの少年から数珠つなぎの白い花を買い、バックミラーにそれをかけた。雨とカビの匂いの車内に、清廉な花の匂いが加わった。ダッシュボードには仏像が備えられていた。
ナイはとても親切だった。
それが仏教徒だからなのかどうかはわからない。本心なのかどうかも知らない。タクシー代もシェアした。だが、どこかナイの親切さは人工的だった。肩を並べて座っているとそれがわかる。気持ちがざわざわするのだ。祈った後で、こんなことを思うのも気がひけるのだけど。
スリーピング・ブッダ、その大きさは想像を超えた。
その巨大な顔は入り口からも見えた。柱と柱の間からのぞく巨大な目、金髪の頭。建物に入ると空間がぱあっとひらけた。度肝を抜かれる大きさで、目の前を巨体が寝そべっている。全長70メートル、高さ18メートル。顔だけで10メートル近くもあるだろう。
巨体を横たえたその前には大勢の参拝者が並んで座り、それぞれ懸命に手を合わせ、床に額をこすりつけている。なんだか怪獣映画のセットのようにも見える。畏怖の世界だ。
ナイはもう一度ぼくの名前を聞き、席をたった。
しばらくして戻ってくると、買ってきてくれた数珠をぼくに渡すと、「名前を記帳してきました。これがあなたの108の煩悩です」という。
煩悩が玉となり、紐でつながれていた。
それをもち、ぼくたちは大仏の周りをゆっくりと歩く。うしろで手を組み、親指の先で数珠玉をひとつひとつ数えながら。ぼくのように有り余る煩悩を思えば、なぜこれほど大きな寝仏が必要だったのかわかる気がしてくる。大仏の足の裏には、そんな108の煩悩が描かれていた。
ふたたびダウンタウンにタクシーを走らせる。
コーヒーを飲もうということになり薄暗いカフェに入るが、ナイはそこで正体をあらわした。
「これから寺院で子供たちに食事を与えなくてはなりません」
それで50ドル寄進しろという。いろいろしてくれたお礼を言い、ぼくは席をたとうとする。甘すぎるコーヒーにも未練はない。待て、30ドルならどうだ。ナイはすがる。人工的な微笑が消え、ギラギラした表情がそれに替わった。悲しい目をしている。たぶんぼくも同じだろうが。
徳を積んでいるんじゃなかったのか、とぼくは思う。もらった数珠をテーブルに放る。ただならぬ雰囲気に、ウエイターたちがいっせいに振り向く。ナイはこのコーヒーショップのなじみなのだろう。何事かウエイターに話しかけていた。ウエイターはぼくを見てニヤニヤしている。
早くこの場を去りたかった。
ぼくは大きくため息をついてみせ、「今日のガイド代だ」と、ピン札の10ドルをテーブルに置き、デイバッグを掴んで立ち上がる。それから近くのウエイターの手に1000チャットをわたし「コーヒーをありがとう」といった。彼はよく来るのか?と聞きたがったが、英語がよくわからない様子なので諦めた。
ぼくは店を出た。ナイは追ってこない。
通りの雨は少し小ぶりになっていた。
腕時計を見るとまだ朝の9時を回ったばかりだった。
すでに一日ぶん、疲れていたが。
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