なにを見てもネガティブにとらえる人がいる。
もう日本はダメだとか、わが社は終わりだとか、自分は周りから嫌われているとか。それを「ばかじゃないの」と突き放すのも手だが、「そんなことないよ」と言ってあげるべきかどうか、迷う。
この人はなぜそう捉えちゃうんだろう?
さらにもう一歩進んで「ぼくがこの人だったら?」とつい、おきかえてみたりもする。「なりきる」といっていいかもしんない。すると、なぜそう発言したり、物事を捉えたのかがわかる瞬間がある。そうやって、いろんな人になりきれば「なるほど、それも一理あるな」と思えてくる。占い師も、そうやって鑑定する相手の「次の行動」について洞察するのだろう。
ひとそれぞれに捉え方がある。
この捉え方のことを認知心理学では「スキーマ」という。
ぼくがこの「スキーマ」を意識するようになったのは旅。
ぼくはあまり旅に癒しを優先しない。ろくに調べもせず知らない場所に行って、知らない食事をしたり、知らない人と過ごすのが好きだ。相手が日本人だと人見知りするのにね。旅が楽しいのは、自分がその土地の「ズブの素人」だからだと思う。知らないから聞く、知らないから注意深くなる、知らないからよく見ておく。常識だと思っていたことが裏切られる。びっくりする。がっかりする。旅の醍醐味はたいてい「苦労の末」にある。
旅のそういうところがぼくは好きだが、旅のそういうところが嫌いだという人もいる。だから旅に裏切られないよう、とことん「情報武装」をする。ガイドブックを買い、行き先を調べ、ホテルを予約する。ネットはそんな時にとても便利だ。
行った先で「ああ写真のとおりだな」とか「書いてあったとおりだったな」と確認できる。これを情報検証という。情報検証の旅は商売ネタにもなりやすい。人を集めやすいからだ。例えば世界遺産なんかがそうだ。
同じ場所に住み、いつもの人たちと過ごす安心感は代えがたいものがある。だけどゆえに閉塞感も生まれやすい。共同体から生み出される世間というモンスターは敵にすると怖い。おとなしく飼い慣らされて生きるのも手だけど、ぼくは狭いのは苦手だ。安心感と閉塞感はコインの裏表。「どちらかひとつだけ」という選択肢はない。
自分の知らない異文化の土地へ行き、そこに数日暮らす。そこで暮らす生活者になりきってみる。住民の目で見て、住民の耳で聞いて、住民の舌で味わう。日本を出るとかえって日本がよく見えるのは、そこで異文化スキーマを得られたからだと思う。情報検証だけでは得難いのがスキーマだ。
スキーマは「捉え方」であり
その人の「抽斗(ひきだし)」である。
抽斗は受身的な知識だけではなかなか得られない。たぶんそれなりの体験を必要とする。身を削ったり、痛みを伴うこともあるかもしれない。他人に付いていっただけの道順はすぐに忘れちゃうけど、苦労して見つけた道順は忘れられないものだ。
なにも旅からだけじゃない。
読書もそうだし、映画なんかもそう。
著者の思考を追体験することでスキーマを得ていつもの思考に広がりが出るし、映画の主人公になりきることでいつもの景色が違って見えるかもしれない。
豊かな人生とは「豊かなスキーマ」がもたらす。
だとすれば「読書で心を豊かに」とか「旅は人生を豊かにします」というどこかのコピー文も、あながち間違ってはいないんだなという気がしてくる。
かといって、本屋さんで「この本ではどんなスキーマが得られるだろうか?」なんて考えてる人がいたら、ちょっとコワイ。人付き合いも、とことん打算的な感じがしてきちゃうから。
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