「最近の若いもんは・・」
と言いかけ、ぐっと飲み込む。
そんな自分がこのごろ、気になる。
いつのまにか「そう言われる立場から、言う立場」になっていた。自分もいよいよオジサンだなあ、と感じるのはこんな時である。
古代アッシリアの碑文やエジプトの象形文字にも「近頃の若者は」などという文が残っているというから、太古の時代も、いまとそれほど変わっていないのかもしれない。
オジサンとはそういうもので、ときに下の世代は元気がないようにみえてしまうのだ。あるいは「オレがまだ若い頃は・・」とセットで言いたいだけなのかもしれないが。
でも元気がないのは日本そのものだ。
それはオジサンたちにも責任がある。
時代や世代ごとに必要とされるモノや価値は変わる。「いまの若い奴らはハングリーじゃない」とオジサン仲間は力むが、今の時代、モノやお金はハングリーの対象でなくなった。ただそれだけなのかもしれない。
ぼくは思うのだけど、いつの時代にも若い人は「足りないものを欲しがる」のだ。いま、足りないもの。ここに、足りないもの。クルマや服を買いあさっていた世代は、その時代、クルマや服が足りなかったと感じたのだ。カネやモノにハングリーな世代は、それらが決定的に足りなかったのだ。戦争で失われたものにハングリーだったのが団塊の世代で、高度成長期に失なわれたものにハングリーだったのが新人類で、バブル時代に失われたものにハングリーなのがゼロ世代で、という具合に。
ということはクルマやブランド物の服が売れないのは、世にありふれ、有り余っているからではないか。求めるに値しないと「いまのわかいもんたち」が感じてしまっているのかもしれない。
そもそも「ハングリーだった」というのは、なにもオジサンたちだけの特権ではない。いつの時代にもどの世代にも、それはちゃんとある。
仏像や日本の伝統工芸品などに関心が集まり、ネットやオフ会を通じて絆を確認しあうような動きが「いまのわかいもんたち」に見られる。東日本大震災を通じ、何かこう自分だけを豊かにする価値とは違う、社会的な貢献か何かを求めようとする気運が「いまのわかいもんたち」に多く見られたのは偶然ではないだろう。
それらを目の当たりにしながら、はたして10代や20代の自分は同じような行動をとっただろうか?とぼくは自問せずにはいられなかった。あんなふうに社会的なつながりを、身を呈して求めただろうか、と。
今の時代に足りないもの
それは「いまのわかいもんたち」が教えてくれる。
彼らが何に関心を持ち、関心を持たないか。
あるいは何にお金を使い、お金を使わないか。
失われたものこそ、次のターゲットである。
ぼやいてなんて、いられない。
最近のコメント