ドイツで暮らし始めたばかりのある春の日、ぼくはテレビを買うことにした。
1984年にもかかわらず、街の電気屋ではまだ白黒テレビが安く売られていて、お金のないぼくは当時としては大金だった429マルクを工面、身を切る思いで渾身の一台を購入した。
まだ西ドイツと呼ばれていた時代。放送局は国営ばかりで、民放はサテライトかケーブル放送が開始されるまでは目にすることはなかった。まるで社会主義国家のようである。白黒テレビで国営放送。訳のわからないドイツ語。放送しない時間帯もあり、とつぜん試験画面に変わることもしばしば。ぼくはそのことにわくわくした。なにもかもが新鮮だったのだ。情報は少ないほど感覚は尖る。小さな白黒ブラウン管の前で、ぼくは全身が感性のかたまりとなっていた。
ドイツのテレビ番組は、ドイツ語がよく理解できない個人的事情を抜きにしても、退屈なものが多かった。ニュースや討論番組がほとんどで、合間にドラマや映画が流れた。午前中はよく古い映画が放映されていた。黒澤明作品もよくやっていた。
自分の好みは戦前のヨーロッパ映画である。時代背景を本で調べながら、それこそ食い入るように観入った。もちろんモノクロである。元よりテレビも白黒である。そのためのテレビといっても過言ではないほど相性もいい。小さなスピーカーはすぐに音割れするが、それもまた味わいがある。
言葉はろくにわからず放送局も2局だけ。しかも放送時間は限られモノクロで画質も音質も悪い。不自由なテレビ環境ではあったけれど、縫うようにしてそれなりの量の映画をみることができた。中でも、いまなお印象深く覚えているのが『別れの曲』というショパンの伝記作品。1934年の作品というから、なんとナチスドイツ時代である。原題は『Abschiedswalzer(別れのワルツ)』。かなりあとになって、日本語字幕付きで観る機会も得た。
クラッシック音楽になにひとつ造詣の持ち合わせないぼくでも、さすがにフレデリック・ショパンは知っていた。ただ、ポーランド出身であることはこの映画で知り、映画の舞台である1830年代のポーランド、ロシアの圧政に置かれた運命や、華やかな衣装を纏うウイーンやパリのサロン文化も併せ知ることができた。なによりショパンの感情的でロマンチックであること。それが身を滅ぼすほど高く自虐的であることにすごく共感し、相手役のジョルジュ・サンドの髪型に胸をときめかせた。
ふとこの映画のことを思い出したのは、2022年2月のロシアのウクライナ侵攻がきっかけだ。多くのポーランド人がウクライナの悲劇を当事者のように受けてめているのも、同じ経験をいく度なく味わっているからではないか、と考えた。ポーランド人に親日家が多いのも、かつて日本は帝政ロシア軍をうちやぶったからとも言われる。
ショパンがパリの初コンサートで演奏するシーンが映画にある。だがこのとき弾いたのは予定されていたモーツアルトの曲ではなく「革命のエチュード」という自作の即興曲。これもショパンか!というような鍵盤を激しく叩きつけるように演奏するこの作品は、のちに大作として後世に残る名曲であるけれど、演奏直後は会場騒然となり、酷評され、サロン界でショパンはクソミソの扱いとなった。そんななかで唯一「100年に一度の天才」と評したのがこのジョルジュ・サンド。女流作家であり、パリサロン界の花形でもあった。そのようにしてショパンを一躍スターダムにのし上げた仕掛け人の役目となった。
ではなぜショパンは感情に任せ「革命のエチュード」を弾いたのか?
とき同じくしてロシアの暴政に対抗し、立ち上がった友人たちを想い、強く共感したからであった。本来なら友と共に戦うはずが、病気がちで叶わなかった自身の代理行為だったのだろう。ショパンはかねてより言葉にできない思いを曲に転嫁させるのが、実にうまい音楽家であった。政治的レジスタンスであれ、愛の告白であれ。
ワルシャワの友人たちが起こしたレジスタンス運動は「ワルシャワ11月蜂起」という歴史的事件として知られる。翌年、がまんならないロシアはポーランドに軍を送り込みワルシャワを包囲した。次第に各地で抵抗するレジスタンス軍を排除し、結果的にロシアのポーランド支配をより強めることなった。こうしたロシアによる周辺国への乱暴狼藉ぶりは、過去数百年にわたって定期的に繰り返されている。冷戦が終わって久しいいまなおNATOを解散せずにいるのは、こうした歴史を教訓としているからであろう。ウクライナもその傘に入りたかったのだ。だがロシアは断じてこれを許さない。
こうしていま、あの白黒テレビのことを考える。
グルンディッヒ製の14インチ型。2本の長いロッドアンテナの先っぽにはなぜか緑色のリボンが結ばれていた。ネットもスマホもなかった時代。情報の収集手段はとても限られたものだったけど、あの小さなブラウン管からノイズ混じりに映される世界は、とても得難いものだったし、失われにくいものだった。
なにより、心の奥にもよく届いたのだ。ショパンが生んだ多くのピアノ曲のように。たとえ今がどんなに便利で美しく、効率的になろうとも、情報が心の奥に届くことは滅多にない。
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