クラーク飛行場はマニラから車で約2時間、90km離れたところにある。開設したのは1903年、まさにライト兄弟が有人動力飛行が成功したのと同じ年である。「クラークフィールド」「マルコット」「マバラカット」などいくつもの飛行場から構成される巨大な敷地だ。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦とほぼ同時に台南を飛び立った日本海軍機(ゼロ戦34機、爆撃機53機)はクラーク飛行場を襲い、アメリカ軍機100機以上(保有奇数の半分以上)を地上で撃破した。すでに宣戦布告を受けていたらアメリカ軍戦闘機は迎撃に上がっていたが、天候不良で着陸した直後。初戦、天は日本軍に味方したのだった。
制空権を奪われた米軍は、植民支配していたフィリピン・ルソン島で日本軍の上陸を許し、またたく間に占領された。クラーク飛行場は1942年1月、日本軍の手に落ち、以後は日本軍によって使用された。破竹の勢いだった日本軍も、2年と数カ月過ぎるころにはしだいに刀折れ矢尽き、じりじりと戦線が後退していった。そこへフィリピン奪還を目論む700隻もの米軍艦隊が怒涛のごとく迫っていた。空母から飛び立つ艦載機で、地上の日本軍機はかつての何倍返しでアメリカ軍の空襲で叩かれ、地上軍はことごとく打ち破られていった。
後に神風特攻隊とよばれる特別攻撃隊が初めて編成されたのは、日本ではなくここ、フィリピンであった。すでに練度の高いパイロットは少なくなり、主力戦闘機はアメリカ軍機に比べ性能が劣り始めていた。かつて世界一だったゼロ戦は見る影もない。地上で破壊され、飛んでは撃ち落とされる。正攻法では勝ち目がなく、このまま米空母から飛んでくる艦載機にやられっぱなしであった。
最初の神風特別攻撃隊は4つの隊で編成され、1944年10月20日、ここマバラカットから飛びたった。しばらくは空振りに終わり、初戦果は同月25日、敷島隊の関行男大尉(戦死後中佐)による米軍軽空母の撃沈だった。
その関中佐を祀る銅像を一目みようと、朝の7時、ホテルの前でたむろしていたタクシーの1台に声をかけた。殺人的な朝のラッシュに阻まれ、タクシーはなかなか進めない。ようやく渋滞を抜け、ハイウエイに差し掛かったのは出発して1時間以上たってのことだった。ハイウエイは快適だった。窓の外には田んぼが広がり、やがてトウモロコシ畑がそれに替わった。時速120kmの光景、豊かな国だと思った。
ほどなくしてマバラカットに到着した。けれども銅像はなかなかそれがみつからない。ドライバーのトニーは、近くにある歓楽街(アンヘレス)にマニラからよく客を連れてくるからこのあたりは詳しいという。近くで誰かに聞けばわかるだろうと思っていたらあてが外れた、ということらしい。誰に聞いてもちっともわからない。ぼくのもつ情報も不確かだった。
戦後しばらく駐フィリピン米軍基地だったクラーク基地もフィリピンに返還され、経済特区となった。ちらほらと建物も見られるが、そこはだだっぴろい敷地が広がるだけの土地。地図には国際空港と載っているけれど飛行機など1機も上がらない。ときおりベトナム戦争で使った古臭い戦闘機がぱらぱらと並べられていたが、なんだかうらぶれた遊園地のようである。
「カミカゼメモリアルはどこだ?」トニーは道行く人に訊く。「あそこじゃないかな?」「あっちの方でみたよ」訊かれた輪タクの運転手は、達人のような顔をしてテキトーに答えるのだった。トニーは貧乏ゆすりをはじめた。アイドリングとうまくシンクロしているのがおかしかった。カジュマルの大木から溢れる木漏れ日が、まだらに路を照らしていた。助手席でぼくは空を見上げ、あるはずのないゼロ戦の飛行機雲を探した。ぼくが空ばかりを見ているのでトニーは不服そうだった。おまえも探すのを手伝えと。なんのために来たんだ?と。
いまから72年と少しまえ、この空に飛び上がる勇気を、日本人パイロットたちはどうやってふりしぼっていたのだろうかと思う。前の晩はうまく眠れたのだろうか? 食事はのどを通ったのか? 出撃前、家族に残した遺書の多くを、ぼくはかつて読んだことがある。靖国神社で、鹿児島の知覧で。どれもが達筆で、両親への、妻への子どもたちへの愛情で溢れていた。理不尽を感じたかもしれないが、時勢がそれを許さなかった。遠い時代の遠い世界のことのように思えたけれど、いまこうしてマバラカットの空のもとにいると、当時のことがありありと想像できる気がした。彼らがこの大地を離れる直前のほんの一瞬、脳裏によぎったものが少し見えたような気がした。
もとより人間、生まれた場所と時間を選べない。
ぼくもまた、あの時代に生を受けていれば、もしかしたらこの大地を蹴って空に舞い上がったかもしれない。サマール沖に浮かぶアメリカ空母を目指し、だが途中で迎撃を受け、力尽き、硬い海面に突き刺さったかもしれない。
ぼくは戦争を美化しないし、かといって卑下することもない。どの時代もそのとき置かれた立場と状況の中でせいいっぱい生き、死んでいくのだ。後知恵で「あれは犬死だった」と評す人たちがいるが、あまり品が良いとはいえない。
たとえほとんどの日本人が知らなくても、あるいは忘れ去っても、同地のフィリピン人たちはカミカゼを忘れなかった。あの時ここから戦士が飛びたっていったことを誇りにすら思った。そうした有志が集まって、ここに関大尉(当時)の銅像を建てた。ちかくに資料館を作って、遺品などを展示した。毎年10月25日にはここで鎮魂のための慰霊祭が執り行われる。日本からも遺族や戦友たちが集まるのだという。1時間くらいまよってから、ようやくそれをみつけた。
ぼくはもう一度銅像に向かって手を合わせ、空を見上げる。銅像がそうしているように。
第二次大戦中、フィリピンで亡くなった日本将兵は50万人。そのことをトニーに話すと、心底驚いた様子だった。同じ時期、戦禍に巻き込まれ犠牲になったフィリピン人は180万人。ほとんどはアメリカ軍の空襲や艦砲射撃によるものだ。アメリカ軍が上陸前にすることは、地上に残るあらゆるものを破壊することだった。それは徹底的におこなわれる。「戦争とはそういうものだ」とトニーは言う。「それにしても日本人はすごいな。フィリピン人が50万人も日本で戦死するなんて、どう考えたってありえない!」
ぼくもそれについて思いを巡らせてみたけれど、やはりあり得ないと思った。遠くない将来、50万人ものフィリピン人が日本で観光することはあるにしても。
マニラはそこそこに、明朝早くダバオへ飛ぶ。
ドゥテルテ大統領が安倍首相を私邸に招いたのもダバオである。トニーは、「シンゾー・アベがいて日本が羨ましかったけど、おれたちにはいまロドリゴ・ドゥテルテがいる。フィリピンはこれからどんどん良くなるよ」と胸をはった。
トニーの運転する車は再び渋滞へと突入した。
最近のコメント