旅先では、自分がもしここで生まれていたら、なにをしていただろうか?と都度思う。猛々しいアトラスの斜面を羊の群れをひき連れて歩く羊飼いのおじさん。いましがたアッツァイを運んできてくれたウエイター。なかなか値引きに応じてくれない土産物の主人。思えばその誰もが、ぼくだったかもしれないのだ。
ひとは誰しも生まれる場所と時間を選べなかった。
ぼくが60年代の広島で生まれたのも、80年代に北アフリカの農村で生まれたであろう目の前の男も、生誕確率に大差があるわけじゃない。なにか特別な必然性があったわけでもない。すべては「たまたま」である。内戦中のダマスカスだったかもしれないし、文化大革命まっただ中の天津であったかもしれない。類まれな卓越した努力をしてきた実感もないぼくにとって、自分は誰でもなく、また誰でもある。どれも同じ確率で起こった。「たまたま」そうならなかっただけである。
例えば、アブラヒムというカサブランカ生まれの男がいる。ぼくだったかもしれないうちのひとりだ。高校を卒業後、兄の友人であるアリの紹介でタクシーのドライバーになる。1日あたり50ディルハムで車を借り、それ以上稼ぎがあれば自分の懐に入れて生活をしていた。満たなければ持ち出しとなる。3日プラスで2日マイナス。一進一退である。雨の日は稼げた。嵐の日は街に出る人そのものがいなかった。
アブラヒムは悩む。商売がさっぱりだからだ。それでつてを頼り、4年ほど前からマラケシュのスークで観光客相手のガイドをしている。叔父の口利きで一昨年結婚もし、生後3ヶ月になる娘もいる。タクシー・ドライバー時代に身につけた3ヶ国語は、ここに来てさらに磨きをかけた。なわばりがあるのであまりでしゃばったことはできないが、カサブランカに比べいくぶん空気もきれいなマラケシュは自分と相性が良い。喘息持ちだったということもドライバーを辞めたかった理由のひとつだ。このごろ日本からくる観光客が増えた。今日もそのひとりに出くわした。噂ほど気前良くはない日本人。例によって「金はない」という。ならば、どうしてはるばるここまで来れたんだ?と思う。これじゃ子供のおむつ代にもなりゃしない・・・
旅先での出会いは、ことごとく偶発的である。ことばを弄するまでもない。ミクロン単位の確率で、ぼくはこのアブラヒムとマラケシュで出会う。その確率をもってすれば、ぼくは彼であり、彼はぼくであったかもしれない。
こころに余裕がなくなったとき、もっとも損なわれるのは客観性だ。自分を見失っているときもそうだ。自分がいまどんな状況にあるのか?どこからきて、どこへ向かおうとしているのか? 周囲にどんな影響を与え、また受けているのか? わからないままがむしゃらに動いていては、失うものは時間だけでは済まない。旅に出るとそれらは一目瞭然となる。
旅を通じて心に余裕を持てるようにもなる。ぼくが「もしかしたら彼だったかもしれない」と思えるのは心に余裕が出てきた左証かもしれない。
旅は自分を、その土地にとって異質なものにする。なにが違い、なにが同じかを目の前に差しだし、広げてくれる。自分のカタチというものがさらけ出される。日常というものは、離れてはじめてそれとわかるのだ。
世界にはいろんな自分がいる。
旅の出会いには、それもある。
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