モロッコ全土を半周したところでもっとも印象深かったのは、アトラス山脈が織りなす自然の景観と、絶壁の斜面にへばりつくようにある集落であった。もちろんシャウエンの青いカスバや、シェビ大砂丘のオレンジ色のサハラも素晴らしかったが、圧倒されたのはこうした多様な風土である。
▲ トドラ峡谷を歩く。岩肌はまるでステーキ肉のよう
大きなミートローフをさくっと切り分けたような赤い岩肌、これと緑のナツメヤシとのコントラストは、どこか既視感をともないながらも、ほかでは見られない光景である。グランドキャニオンに近いが、9世紀の遺跡が斜面にへばりついているぶん、さらに想像力を掻き立てられるものがある。
▲ もちろんホンモノ(ジオラマ風に撮影)
モロッコ北部からアトラス山脈に近づくにつれ標高が上がる。スキー客で賑わう街などはロッジなどが林立し、まるでスイスかオーストリアの村を思わせるが、南へとアトラスを超えてしまえば、とたんに完走した砂漠地帯に変貌する。山肌に転々と低い灌木が点々と連なるさまは、荒涼としたスペインの大地を思わせた。山を超えただけなのに、地球の反対側に出てしまったかのような錯覚に陥る。
ふつう半砂漠地帯を車で走っていてもアメリカ大陸やオーストラリアなどのように退屈なだけなのだけど、モロッコはむき出しの地層や集落やカスバが点在し、羊や黒ヤギの集団がめえめえと道路を横断していたり、ロバが野良仕事を手伝っている光景などが次々に現れて、飽きさせない。こうした光景を、ぼくがあまりにも車から身を乗り出して撮ろうとするものだから、ヒシャム(運転手)はそのたびにクルマを停車し、撮影が終わるのを辛抱強く待つことになった。(もっとも、だからこそツアーに参加しなかったのだけれど)
なおきん「あれはベルベル族の集落だね」
ヒシャム「ああ、そうだね。ぼくもベルベルの血が半分入ってる」
ベルベル民族はイスラムの洗礼を受ける前からの先住民であった。他のマグレブ諸国(チュニジア、アルジェリア)では、どちらかというと抑圧されていたようで、そうでなかったモロッコではそれなりに居心地が良かったのだろうと思う。もっともこれはユダヤ人にも共通していて、モロッコには20世紀の初めまで相当数のユダヤ人が暮らしていた。その居住地にも立ち寄ってみたが、100年程度しか経っていないのにローマ遺跡のようであった。第二次大戦後、イスラエルが建国されてからは、そちらへ移住していったようだ。ぼくはユダヤ人居住地跡に残された井戸から水を汲み出し、まだそれが現役であることを知る。
大砂丘へ向かう途中、緑まぶしいナツメヤシ群を横に見ながら車は走る。このあたりはオアシス街道とも呼ばれ、目を楽しませてくれる。途中立ち寄ったレストランは、外国人向けらしく味がしっかりしていて美味しかったが、値段もそれなりにした。近くのモスクではちょうど金曜日ということもあり、村じゅうの信者が参拝に集まっていた。めずらしく女性たちの姿もあった。
シェビ大砂丘を出発し、西へと向かえばそこはカスバ街道。
ヒシャムによれば、トドラ峡谷やタデス峡谷で有名な場所らしいけれど、ぼくは下調べをあえてしてこなかったので、もうワクワクドキドキのオドロキの連続であった。いつキングコングが出てきたっておかしくない風景、実際多くの映画のロケとして利用されたのだという。というか映画そのものの世界である。
タデス渓谷の只中で宿を取る。
部屋からは赤茶色い絶壁が広がり、その前を川が走っていた。4000m級の山々から下りてくるそれはそれはきれいな水である。標高は1700メートルもあり、日が暮れればあたりは気温7~8度しかない。風も強く、気温より寒く感じた。あたりは鳥の鳴き声と渓流の音以外はなにも聞こえない。満天の星が降ってくるようだった。前夜は砂漠の上で眠った。そして今日は山の上。こうしたギャップがまた楽しい。
朝一番でタデス渓谷を過ぎれば、こんどは「バラの谷」と呼ばれる一帯にでる。ヒシャムはこの地で生まれたそうで、いまも兄弟と両親がそこで暮らしている。せっかくなのでそのうちに遊びに行かせてもらった。
「朝食はいつもこれなんだ」
と出されたのはミントティーとモロッコパン、それとオリーブ油である。パンをオリーブ油に浸し、ティーで流し込む。モロッコ版コンチネンタルブレックファストである。素朴で旨い。そのうち、寝ていた生後三ヶ月の姪が登場し、居間はいっそう賑やかになった。ヒシャムの子煩悩ぶりは、見ているこっちが恥ずかしくなるほどである。赤ん坊は見慣れたおくるみ姿であったが、日本と違うのは手足を動かせないよう紐で縛り上げていることだった。「窮屈すぎないかな?」とぼくが聞けば「あちこち掻くから赤ちゃんにはよくないのよ」とヒシャムの姉が答えるのだった。
モロッコは農業国である。就業人口の46%が農家というから、まるで戦前の日本並みである。他のマグレブ諸国と比べても圧倒的に多い。そのせいかヒシャムの実家にもちゃんと畑があって野菜や果物が栽培されていた。ミントもザクロもオリーブもリンゴもあった。
モロッコでは古来より、アトラスの豊かな水源を「ハッターラ」と呼ばれる灌漑システムが、砂漠の村までそれをとどけている。地中に水の通り道を設け、年中作物が育つようにしてある。
▲ ハッターラの前で
ただでさえモロッコはリン鉱石の埋蔵量が世界の3分の2を占めている土地柄だ。肥料の三要素はリン酸、窒素、カリ。この内窒素とカリは人工的に生成できるがリン酸だけは自然のリン鉱石から得るしかない。それをモロッコは大量に埋蔵されているのだから、作物だって育たないわけがないのだ。そのせいか滞在中、実に多くの野菜を食べた。サラダに煮物、焼き物とあらゆる料理に野菜がふんだんに使われていて、どれも新鮮でおいしい。1周間で1ヶ月分食べたくらいだ。
バラの谷付近の村では、バラをつむ農夫の姿があった。ロバの背にそれらを乗せ往来する光景は、愛らしい。本人たちはそれどころじゃないのだろうけど、旅人の目にはそれだけで悩みのひとつやふたつが消えてなくなるほど愛らしいものがある。
▲ ロバは農作業において重要な労働力
バラの花をひとつ失敬して鼻に当てる。バラってこんなにもいい香りだったんだとあらためて思った。さっそく近くの工場で出来立てのローズウオーターをまとめ買い。帰国後のおみやげにと思ったのに、ぜんぶヒシャムのクルマの中に置き忘れてしまった。
ヒシャムは置き土産のローズウオーターをシャワーのように浴び、ますます妖艶になっていくのだろうか。
▲ ヒシャムとぼく(なんでモデル立ちなんだよヒシャム?)
今回の移動ルート
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