サンレモに散った恋
30年前、イタリア人の女の子に恋をした。
いまにして思えば彼女にとってぼくは、何人ものボーイフレンドのうちのひとりにすぎなかったかもしれない。80年代なかば、ぼくと同じく外国人としてドイツで暮らしていたが、地味な生活をしていたぼくに比べ、彼女の生活はキラキラしていた。毎晩のようにどこかでパーティが開かれ、彼女もそこに参加していた。白人クラブのような様相もなくはなかったが、いくつかぼくも強引に参加した。まわりから少し変わった人に思われていたかもしれない。オールディーズが店に流れだせば、人の輪から離れ、ひとりでロックンロールを踊ったりもした。
その年の夏がくる前に彼女はイタリアに帰国した。
「イタリアに来ることがあれば寄ってね」と、住所の書かれたポストカードをよこした。真に受けたぼくは夏休みをとり、彼女に逢いに行くことにした。おどろかせようと、前もって本人に連絡をすることなく。
彼女はすでに結婚をしており、娘までいることを知ったのは、彼女の家に着いた後のことだった。そこは地中海に面しており、国際音楽祭がひらかれることで有名な都市だ。初めはなにかの冗談だと思ったが、冗談だと思ったのは彼女のほうだったかもしれない。ショックだったが、夜行でほとんど眠れなかったこともあり、そのまま部屋のひとつで仮眠させてもらった。目が覚めて夢からも覚めたが、彼女の母親のつくったパスタを厚かましくいただいた。引き続き家族に混ざってワインを飲み、一息ついてから出発することにした。おかしな話である。フラれたばかりの彼女の家族とだんらんするなんて。
休みはたっぷり2週間ある。
彼女と過ごすはずの2週間であった。期待は外れ、来た道を駅へと向かった。ろくに考えもせずにホームに立ち、そのまますべりこんできた列車に乗り込む。乗ってからマルセイユ行きの列車だと知った。これからの記憶は少しあやふやである。なにしろショックで頭がぼおっとしていたし、記録もなければ準備もしてこなかった。ドイツの自宅をでるときは「彼女の住む街でどんなふうに過ごそうか」などと考えていたのだ。まさかひとりでそのままフランスを超え、スペインを超え、しまいにはジブラルタル海峡まで超えることになるとは、このとき思いもよらなかった。
父と娘との出会い
その父娘と同じコンパートメントに乗り合わせたのは、バレンシアを過ぎてからだった。お互い「ブエノス・タルデス」といったきり、会話がない。しようにも言葉がわからない。父親と娘はフランス語で会話をしていた(実はこのときまで親子だと知らなかったが)。ぼくは音楽でも聴こうと、リュックからウォークマンを取り出し、ヘッドフォンを耳にかけようとした瞬間、父親のほうがそれに興味を示したようだった。
父親がうれしそうにひとことふたことぼくに話しかける。言ってる意味がわからないのできょとんとしていると、娘がすばやく父親のことばを英語に訳した。
「それはホンモノか?って訊いてるわ」
そう。とぼくは答え、自分はジャポネだといった。
父親はほら言っただろう!というような得意げな顔を娘に向け、なにかこう日本製品を称えるように、あらん限りの日本のメーカー名を口にし始めた。実に「オンキョー」まで彼は知っていた。1980年代の日本製品の威力はそれはもう、すさまじかったのである。日本といえばフジヤマ、ゲイシャ、ハラキリを想起するところを、しだいにトヨタの車やソニーのウォークマン、東芝のテレビ、ニコンのカメラなどに置き換わっていったころだ。
ぼくはそんな日本のイメージにまったく貢献をしていなかったが、恩恵を受けてそんなすばらしい日本製品を作る日本人として一目置かれる形になった。
「あなたこれからどこいくの?と聞いてるわ」と娘が言う。
なにも決めていない、とぼくが答えると、父親の返事を訳すのを少しためらいながら「うちに来い、っていってるわ」と続けた。
そこでようやくまだお互い自己紹介をしていなかったことに気がついた。
父と娘はラバトからきたモロッコ人であった。モロッコとは意外だった。ふたりとも南ヨーロッパ人の顔つきだったし、娘はヒジャブ(スカーフ)を頭に巻いていなかったからだ。ぼくはインターレイルパス(1ヶ月間2等車乗り放題鉄道チケット)を持っていたが、モロッコ国内も有効だったことはそのとき初めて知った。
そしてモロッコへ
運命というのはつくづくわからない。
イタリアで女の子にフラれ、そのことをきっかけにジブラルタル海峡を超え、アフリカ大陸まで行くことになる。半ばやけくそだったし、ぽっかり空いた穴をなにかで埋めたかった。なにしろぼくはまだ20歳を少し過ぎたばかりで、やっちまうことより やらなかったことのほうを恐れる、ただのやんちゃ男子だったのだ。
ラバトで起こったことは、機会があれば書く。
そんなモロッコに、このたび30年ぶりに訪れることにした。
北アフリカは2年前にアルジェリアに行って以来である。あのときはずいぶんとラマダンに苦しめられた。今年(2016年)は、6月6日〜7月5日ということは事前に調べてある(少しは学習をするのだ)。前回のモロッコは自分にとっ、初めてのイスラムの国であったし、街の人々も活気もあったが、なにかこうスピーカーでガアガアうるさいし埃っぽいやらで、あまりいい印象を持っていない。家族にはとても親切にされたが、歓迎の宴でもてなされた羊の目玉料理には、文字通り閉口したことを覚えている。
それにしても時間というのは早い。30年なんてあっという間だ。
自分がどれだけ変わったか、きっとモロッコで知らしめられるにちがいない。
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