会社を辞めた翌日、ワードローブ内を片づけた。
スーツやワイシャツを何着も捨て、ネクタイを捨てた。捨てたネクタイは軽く30本を超えていた。自分で買ったのもあれば、人からいただいたもの、なにかの記念品もある。中には20年以上前にドイツで買ったものもあった。ユーラシア大陸を渡り、東シナ海を超えながら何十年にもぼくの首を絞め続けていたネクタイ。それらを透明のリサイクル用ポリ袋に収め、静かに手を合わせた。
定年を迎え退職したおじさんの中には、ネクタイが捨てられず、無用の長物に場所を取られたままの家人から困られているという。その方は現役時代はりっぱな方だったらしく、ネクタイも状況に合わせて着けわけられ、コーディネートされていたそうだ。あんな不細工なネクタイが何世紀にもわたって男たちの首を絞め続けていられるのは、ステータスシンボルであるからだ。つまり社会的承認を得ている証拠品とでもいうべきか。
ネクタイを捨てるとき、ふとそのことが頭をよぎる。どうみても、ただ手の込んだ細長い布切れである。ブランドショップでは1本数万円もするが、新橋駅のワゴンセールで3本千円で売られていたりもする。初めてつけたときはこそばゆく、どこか誇らしかったネクタイ。それがいつしか「しないと注意されるから」という消極的動機へと変わり、やがて惰性でするようになった。
ネクタイというのはなにかしら良い記憶と結びつけやすい性質がある。さらに場所も取らず、おまけに体型にあわせて買い換える必要もないから、つい、捨て損じてしまう。ネクタイを何十年も捨てずに(かといって使うわけでもなく)とってある人は、わりと過去にとらわれやすい人かもしれない。
それの良し悪しについてはなんとも言えないが、過去は悪いことよりもむしろ良いことのほうが記憶に残りやすい。「想い出は美しすぎて」と昔の歌にあったが、人はとかく都合よく想い出を美しくとっておくものだ。でないと生きていけない、というひともいる。きっといまがつらいのかもしれない。しあわせはこれからもたくさんあるはずなのに、過去にあった「あんな幸せな時期」はもう訪れない、と決めつける。そして実際のところ訪れない。理由はあんがいシンプルで、本人がしあわせを受けつけなくなるからだ。
大切なのは「いま」である。次に「未来」。どうでもいいのが「過去」である。たしかに「過去」の積み重ねの上にいまの自分がある。だけど今を生きるのに、過去にあった承認は必要ない。ぼくに過去の栄光などなかったが、たとえあったとしてもそれがいったい今の何になるだろうと思う。人脈? 経験値? それらがもし「今の自分」の承認となるなら役にもたつが、そうでないなら単なるとらわれの檻である。承認をくれた人にいつまでもひざまずき、その意向にそむかないよう自らを縛るだけのことである。
会社をやめる少し前、酒の席で社長から「あなたのいいところをひとつ言え」と命じられ、「いい加減なところです」と答えておいた。いささか酔ってはいたが、本心である。
いま必要のないモノはゴミだから、捨ててしまう。
それが、未来の不安から逃れるたったひとつの方法。
モノをないがしろにするのではなく
大事なものは、心にしまっておけばそれでいいのだ。
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